連載�C谷川俊太郎全《詩集》を読む（「びーぐる」４５号）

山田兼士

（１２）『祈らなくていいのか』

（角川書店『谷川俊太郎詩集』1972所収）

　既刊詩集からのアンソロジーが中心だが、未刊詩篇を多く含み、特に「祈らなくていいのか」と題された章の１２篇は小詩集一冊分に相当する。様々な機会に書かれスタイルも多様だが、次第に次の様式が見え始めている、斬新かつ果敢な抒情詩集だ。

　教科書にもしばしば取り上げられ、テレビＣＭにも使われた名作「朝のリレー」を引く。

カムチャッカの若者が

きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

　初出が何年なのか分からないが（作者自身も覚えていない）、内容から見ておそらく一九六四年（東京五輪）から六八年（メキシコ五輪）頃にかけての作品だろう。極東の地、メキシコ、ローマ（五輪は一九六〇年）という並びは、オリンピックを意識した選択と思われるからだ。「東京」とせずに「カムチャッカ」（後に「カムチャツカ」に表記変更）としているのは詩人らしい韜晦といえなくはない。両者は東経にして二十度ほどの違いがあるのだが、共に極東であることは確かだ。地球上の何処かに朝が訪れている、という当然のことを、いかにも〈宇宙人〉らしく地球外からの視点から描いた傑作といえるだろう。

　この作品だけでなく、わずか１２篇ながら、近未来を予測させる（と、現在からは見える）様々なスタイルの試みが本作の特徴だ。女性一人称の語りや祝婚歌や対話詩など、さながら小実験室といった趣きである。中でも、「詩とは何か」という難問に正面から立ち向かった次のような作品は、早くも二十一世紀の詩論詩の数々を予告しているかのようだ。

たとえば――

飛んでいる蝶を指して

この蝶をあなたに捧げます

と云うだけでいいのだ

（「目に見えぬ詩集」冒頭）

　続いて詩は「あるいはまた――／澄みきつた秋空を見あげて／この空は私たちのもの／と宣言するだけでいいのだ／／それとももつとつつましく――／ラツシユアワーの街の真中に立止まり／黙つて潮騒に耳をすます／それだけのことでいいのだ」と展開し、最後に｢目に見えぬ詩集の頁を／開くためには」と、鮮やかに閉じられる。四行三連＋二行というイギリス式（シェイクスピア式）ソネットを作者が意識したかどうかは分からないが、曖昧さを許さない毅然とした批評意識のあらわれだろう。「蝶」「空」「潮騒」と続くパラダイムが、小さな生命と大きな自然、空と海、という照応を鮮明に描き出し、小宇宙と大宇宙の交感、という（まさに象徴詩的な）谷川詩学の一つの極を明言しているのである。

（１３）『空に小鳥がいなくなった日』

（サンリオ、1974）

　様々な機会に書いた５０篇を６章にまとめた。ソネット、４行詩節、５行詩節など、多彩なスタイルを自在に操っているように見えるが、実は相当に苦戦したらしい様子が「あとがき」から伝わってくる。詩とは何かという葛藤だ。とはいえ、葛藤の跡を見せないのが谷川流。「私が歌う理由(わけ)」を全文引用する。

私が歌うわけは
いっぴきの仔猫
ずぶぬれで死んでゆく
いっぴきの仔猫

私が歌うわけは
いっぽんのけやき
根をたたれ枯れてゆく
いっぽんのけやき

私が歌うわけは
ひとりの子ども
目をみはり立ちすくむ
ひとりの子ども

私が歌うわけは
ひとりのおとこ
目をそむけうずくまる
ひとりのおとこ

私が歌うわけは
一滴の涙
くやしさといらだちの
一滴の涙

　相変わらず見事なパラダイムの連鎖というしかない。「仔猫」「けやき」「子ども」「おとこ」と、歌の理由をささやかだったり親しかったりする対象に求めた上で、「くやしさといらだちの／一滴の涙」という結尾を導いているので、平凡や卑俗をいっさい免れたこの真実には何の疑問も差し挟む余地がない。

　これとは逆に、冒頭から真実が示される作品もある。「昨日はもう過ぎ去って」の前半を引く。

昨日はもう過ぎ去って
明日はまだ来ない
硝子戸は風に鳴り
紙屑は破れちぎれる
嘘　涙　怒り
誰もが黙ってさぐりあう
何を何を追っているのか
すりきれた靴の下で

地球はもう回らないというのに
遠くからひとりの女が
ひたむきに駈けてくるとき
渇いた心に小さな炎が燃え上がる

　地球の自転の停止というＳＦ的破局をモチーフにしながら、それでも「小さな炎」に望みを見出す、というのはこの時期の谷川詩の一つの様式と思われる（同じ頃に作詞された｢大阪芸大の歌｣の冒頭二行も本作と同じフレーズで、最後は「あふれやまぬ魂の今日の自由よ」と肯定的に歌われる）。「私が歌う理由(わけ)」もそうだが、歌または歌詞を意識して書かれたらしい本作では、後半（歌詞の二番に当たる部分）も同様のリズムと文体で展開し、最後は｢うす暗い路地の先で／未来はもう行き止まりというのに／向いあうひとりの女の／ほほえみをのぞきこむとき／乾いた心に小さな痛みが血を流す｣と結ばれ、未来を喪失した者がそれでもなお「ひとりの女の／ほほえみ」に｢小さな痛み｣を感じ取っている。

　わずかに感じられるこのささやかな痛み＝炎こそがおそらく〈詩〉の希望であるのだろう。詩人の探求はなお深まっていく。

（１４）『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』　　　　　　　　（青土社1975）

そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ　（「芝生」）

　第一四詩集巻頭に小さめの文字で印刷されたこの短詩が「谷川俊太郎宇宙人説」を決定づけた。大岡信による評価がその大きな要因だったことは、今日ではよく知られている。

　全体は組詩を中心とした詩集である。妻、友人、同人といった親しい他者への語り口調で綴られた対話詩の集成だ。種々の依頼に応えた作品群という意味ではいわゆる〈集英社系〉に連なる一冊だが、この時期、詩人は特に、自身の詩作について深い洞察を行いながら、多くの依頼に応えていたことが想像できる。中でも、即興風の新しい言語実験と、クレーの絵とのコラボレーションが鮮やかで、新境地へと踏み出した転換点の一冊といえる。ただし、著作権の問題があったため、クレーの絵はこの詩集では付されていない（後に出た詩画集『クレーの絵本』は別のところで取り上げる）。

　巻頭の組詩の中から十番目、「チャーリー・ブラウンに倣って」とある詩を引用する。

　　　　　　　　　　　

寝台の下にはきなれた靴があってね／それでまた起き上る気になったのさ今朝／全く時間てのは時計にそっくりだね／飽きもせずよく動いてくれるもんだよ／／話題を変えよう／／雑草の上を風が吹いてゆくよ／見尽した風景をぼくはふたたび見ている／／話題って変わりにくいな

　谷川詩のディアローグの基本形だ。相手が実在の人物のこともあれば（例えば妻）虚構の存在（例えば漫画の主人公）であることもあるが、口調はあくまで和やかで親しげである。まるでシャンソンの歌詞のように。

　次に挙げるのは、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」中の名曲「My Favorite Things」を作詞したオスカー・ハマースタインとの対話である。

どんなに好きなものも／手に入ると／手に入ったというそのことで／ほんの少しうんざりするな／／どんなに好きなものも／手に入らないと／手に入らないというそのことで／ほんの少しきらいになるんだよ／／バラの上の雨のしずくに／仔猫のひげ／みがきあげた銅のヤカンに／あったかなウールの手袋か／／かわいそうなオスカー／脚韻てのは踏んずけると／ずいぶんひどい音がするね／まあ魂も時にはオナラをするさ（一部略）

　元の歌詞を踏まえながらアイロニーとユーモアを伴って成立する対話は、まるでオスカーが目前にいて相手をしているかのような錯覚に陥らせる。さらに驚異的なのは、これに続く組詩のもう一つが「ジョン・コルトレーンに」捧げられていて、早逝したジャズ奏者への追悼詩になっていることだ。天才サックス奏者のインプロヴィゼーションを、詩人は｢きみは生きていて呼吸してたに過ぎないんだ／十五分間に千回もためいきをつき／一生かかってたった一回叫んだ｣と要約し、翻って、自らの詩作について「魂と運命がこすれあって音をたてたら／もうぼくにも擬声語しか残ってないよ」と自戒する。
　これらディアローグによる詩の数々は、本詩集とほぼ同時刊行の詩集『定義』のモノローグ詩と鋭い対照を描いている。

（１５）『定義』　　　　　（思潮社1975）

　前作とほぼ同時に刊行された。前作がディアローグ中心であるのに対し、こちらはモノローグによって物の本質に迫ろうとする「ポンジュ的」散文詩である。２４個の物たちは詩人の鋭利な視線と言語によって物そのものの歌を奏で始める。これら対照的な二冊の実験詩集が現代詩の新たな地平を切り開いた。

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。

（「りんごへの固執」冒頭）

　ここでは色や形や味や値段といったりんごの属性が次々と否定されている。サルトルがポンジュの作品を評した「言葉の垢落とし」と同じことが行なわれているのである。続いて、今度は様々な動態表現によるりんごの描写が「物自体」としてのりんごの生態を暴き出していく。

雨に打たれるりんご、ついばまれるりんご、もぎとられるりんごだ。地に落ちるりんごだ。腐るりんごだ。種子のりんご、芽を吹くりんご。りんごと呼ぶ必要もないりんごだ。りんごでなくてもいいりんご、りんごであってもいいりんご、りんごであろうがなかろうが、ただひとつのりんごはすべてのりんご。

　次いで品種名や個数や重さや生産運搬消費の過程が記され、さらに「りんごだあ！　りんごか？」という叫びと疑問が記されることで、ついには「りんご」という名称が消え去って、単に「それ」とだけ呼ばれるようになる。さらに、「答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに……」というエンディングは「りんご」のイメージを鮮明に印象づけるのだが、「りんご」にまつわる諸々の「意味」は排除され、「物自体」としてのりんごだけが残る。この即物的なイメージは、現代詩の一つの方向性を確かに示し得た（あるいは今もなお示し続けている）といっていい。

それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。

（「コップへの不可能な接近」冒頭）

　このような純然たる描写から次第に記述は多方面へと拡散し、最後に「物」を「言葉」によって定義することの不可能性に到達する。

それは主として渇きをいやすために使用される一個の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされくぼめられたふたつの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの美として沈黙している。

　この沈黙に到達した時、言葉はおのれの無力をもさらけ出すことになる。だが、その無力はまた、かえって「言葉」の自由を保証するものでもある。なぜなら、この時「物」とはその完全な沈黙の中にこそ秘められた詩の現前であるからだ。「名」によらない「物」自体の現前という「詩」である。