連載�A 谷川俊太郎全《詩集》を読む
（「びーぐる」４３号）
山田兼士
（３）『六十二のソネット』（創元社1953）
二一歳の青年にとって世界は詩に溢れている。空に地に樹に舞い飛ぶ電波をラジオが捕らえるように、彼は詩を受信する装置となる。無限に入ってくる詩を彼は十四行というカンバスに素早くデッサンする方法を編み出した。感受性の饗宴の始まりだ。
だが、そんな青春の書の中にも、第一詩集にはなかった、言葉への疑念や不信が垣間見られることに注意しなければならない。それはまた、大人への入り口で佇む青年詩人の本音でもある。
私が歌うと／世界は歌の中で傷つく／私は世界を歌わせようと試みる／だが世界は黙っている／（略）／かれらはものの中に逃げようとする／だが言葉たちは／世界を愛することが出来ない／／かれらは私を呪いながら／星空に奪われて死んでしまう／──私はかれらの骸を売る（「５７」）
「歌」論であり「言葉」論でもあるこの作品が谷川俊太郎の「詩への疑念」の最初の告白だ。「言葉たち」の「骸」としての詩を彼は｢売る｣という。この疑念が詩人の批評精神を駆り立てることで「詩とは何か」の探究が始まる、
全三章のうち各詩篇に題名のついた「��」章では、二四篇中一四篇に「心」が用いられている。ソネットという形式名をタイトルに用いているが、内容的に見るなら、本作は『心』と題されていたとしても不思議ではない。「２０ 心について」を挙げておく
私は生きることに親しくなっていった／私は姿ばかりを信じ続けて／心について何ひとつ知らないのだったが／それがかえって私の孤独を明るくした／／私はむしろ心に疲れていたのかもしれぬ／もろもろの姿の毅然としたひろがり／それらは心よりもきっぱりと／時を生き 所を占める／／今 私に歌がない／私は星々と同じ生まれだ／私は心をもたぬものの子だ／／だがその時突然私に心が還ってくる／私の姿が醜い故に？／いやむしろ世界の姿があまりに美しい故に
青年の心の痛みが鋭い切実さをもって迫ってくるが、未だ暗さや苦しさとは無縁である。心についての無知はかえって「私の孤独を明るく」するものだし、心よりむしろ｢姿｣を重視する非情は後の「ノンセルフ」の思想を先取りしている。心には何一つかたちが与えられず、一切は問いのかたちで読者に投げかけられている。もちろん、その読者のうちのひとりは詩人自身だ。自らの問いに対して答えを求めようとする切実かつ磊落な求道者は、この後、六十年の歳月をかけて様々なかたちで〈回答〉を連ねていく。最後に巻末のソネットを挙げておこう。
世界が私を愛してくれるので／（むごい仕方でまた時に／やさしい仕方で）／私はいつまでも孤りでいられる／／私に始めてひとりのひとが与えられた時にも／私はただ世界の物音ばかりを聴いていた／私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ／私はいつも世界のものだから／／空に樹にひとに／私は自らを投げかける／やがて世界の豊かさそのものとなるために／／……私はひとを呼ぶ／すると世界がふり向く／そして私がいなくなる（「６２」）
世界に単独で立ち向かう青年は、次第に「ひと」や「自ら」との対峙の中で様々な道具や武器を獲得し、より意識的かつ方法的詩人へと変容していく。詩論詩人の誕生だ。
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（４）『愛について』（創元社1955）
世界と女と自分と、葛藤する二十代前半の青年詩人が、鮮烈な感性をもって書き記した｢愛｣の作品集。「空の詩人」の誕生を告げる作品群もあれば、宇宙人的感性を示す「地球へのピクニック」等もあり、多様な主題系を空、地、ひと、人々、他の五章にまとめた一冊だ。
私生活の上では、一九五四年に最初の結婚、別居、離婚により愛の成就と挫折を味わった時期で、その影響が色濃く表れた作品に特徴が見られる。まず、「夕方」に始まり｢夕暮｣に終わる詩集の構成、それに「夕暮」と題された作品が三篇あることに注目したい。
誰もいない隣の部屋で／誰かが呼んでいるまるで僕のように／／僕は急に扉を開ける／こつちは暗いのに／そこは明るく陽が射していて／たつた今誰かが立ち去つたところらしく／影がちらと目をかすめる／だが僕が追うともう誰もいず／あたり前な夕方になる／花瓶には埃がつもつている／窓を開けると空が明るくそこでも……／誰かが呼んでいる僕のように（「夕方」）
「誰かが呼んでいる僕のように」といういささか収まりの悪いフレーズを二度繰り返すことで、微妙な違和感（存在の異和）をビブラートのように響かせているのが特徴だが、もしかすると別居中の無聊が背景にあったのかもしれない。夕暮れ時の不安定な寂寥感は不穏な分身の気配をも感じさせている。
前詩集がソネットという単一の形式で貫かれていたのとは対照的に、本詩集では多様な様式が試みられ、以後の展開をうかがわせるいくつもの要素を見出すことができる。挽歌や相聞歌のスタイル、クレーの絵画やケージの音楽との対話、悪漢ビリイ・ザ・キッドへのオマージュ、物語的な亜散文詩など、思う存分に想像の翼を各方面にのばしているようでもあり、青春期の迷いによる試行錯誤の結果ようにも見える。早熟の詩人が早くも黄昏の憂愁の中をさまよい始めているかのようでもある。朝や昼の情景も歌われてはいるのだが、全体のトーンはやはり夕暮れ時の寂寥と哀愁にあるようだ。夕方に始まっていくつかの夕暮を経て最後はやはり夕暮で終わる、という構成は、詩人として初めて味わった（失敗とはいわないまでも）深刻な蹉跌の表れと見られるのである。詩集中盤に置かれた「夕暮」を見ておこう。
死者のむかえる夜のために／今日残されたものはひとつの夕暮／うす闇に／しばらくはふりかえるひとのうなじ／／貧しい者の明日のために／今日残されたものはひとつの夕暮／手をつなぎ／家路をたどる子等の歌
プレヴェールを思わせる歌謡風の作品だが、各連の一、二、三行目がそれぞれ音数をそろえているのに対し、四行目のみが不揃いになっているのは、なんらかの意識の揺れのせいかもしれない。この揺れを最も雄弁に語っている作品は全二一行がすべて「私は飽いた」で書き出される「無題」だが、このリフレインからは早くも詩人が陥った倦怠の響きが聞き取れるのではないだろうか。もちろんそれは創造的な倦怠でもあった。
夕暮は大きな書物だ／すべてがそこに書いてある／始まることや／終ることや――／始まりも終りもしない頁の中に（巻末「夕暮」冒頭）
「大きな書物」とは、以後書き継がれていく膨大な作品群の喩にほかならなかった。
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（５）『絵本』（的場書店1956）
詩集『絵本』は、詩人で谷川の友人でもある北川幸比古が経営する的場書房から刊行された。詩一七篇に著者自身による写真二〇葉を付した写真詩集である。縦二四センチ横二五・六センチ、全四〇ページ、定価六〇〇円。発売前に作成された注文用往復葉書によると、限定三〇〇部で番号と書名入り、「言葉とのアルス・アマトリア」とのコピーがある。著者による最初のコラボレーション作品であり（といっても自己コラボだが）、現在まで刊行されている 七〇冊ほどの詩集の中で唯一の自費出版物でもある。後に刊行を重ねていく写真詩集の原点というべき作品でもある。巻頭作を引用する。
生かす／六月の百合の花が私を生かす／死んだ魚が生かす／雨に濡れた仔犬が／その日の夕焼が私を生かす／生かす／忘れられぬ記憶が生かす／死神が私を生かす／生かす／ふとふりむいた一つの顔が私を生かす／愛は盲目の蛇／ねじれた臍の緒／赤錆びた鎖／仔犬の腕（「生きる」）
作品の左頁にはふたりの（おそらく男女の）腕が交叉している写真が置かれているが、詩の内容と直接的な関係はない。想像できるのは、後半にあらわれる「愛は」以下の四つの名詞「盲目の蛇／ねじれた臍の緒／赤錆びた鎖／仔犬の腕」が凝縮したイメージとして示されている、ということだ。交叉した先で手首が互いの指先を求め合うような方向に曲げられている形は二匹の蛇のようであり、ねじれていて、鎖のようで、さらに「仔犬の腕」のようでもある。「仔犬の腕」というのは華奢で無垢な腕、というほどの意味だろうか。
詩「生きる」に付された写真の手の表情は非常に印象的なものだ。この手こそが実は詩集『絵本』の隠れたライトモチーフであることに気づくのにそれほど時間はかからない。というのも、全一七篇の詩にそれぞれ付された写真（一篇のみ写真が二葉）、それに扉と表紙を含めて全部で二〇葉の写真がすべて手をモチーフにしているからだ。
八月は夢見ぬ月／僕は見た／どこまでも青い海と／陽に焦げた女の腿／僕は見たのだ／陽が移り／風の渚をわたつてゆくのを／それから／僕の血と海と夜とは／同じ匂いがし始めた／そのほかには何も無く／そのほかには
何も／無く／八月は／この星の栄光で一杯だつた（「八月」）
こちらの写真では、水辺に置かれた手が「八月」の印象を象徴的に表している。「どこまでも青い海」を表すのに大海原ではなく波打ち際の漣と手の甲をもってするのは、部分で全体を表す換喩の手法だが、そのミニマルな表現法が詩作品に親しみやすい印象を与えているように思う。「女の腿」｢風の渚｣「僕の血と海と夜」それにとりわけ「この星の栄光」といった瑞々しい抒情表現、言い換えればいかにも「詩的」な表現に、より暗示的で間接的な印象を演出するのが波打ち際の手の写真である。
以上のように、詩と写真は互いにイメージを補足し合い強化し合い、さらには対話し合うことで、より多様で立体的な「詩」を生成せしめている。二〇歳代半ばで谷川俊太郎が確立したこうした立体詩法は、以後の作品の中で直接間接に独自の発展を遂げて、谷川世界をいよいよ豊かに繰り広げていくのである。
なお、本詩集は二〇一〇年、復刻普及版として澪標より刊行されている。
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（６）『あなたに』（東京創元社1960）
初版表紙カバーには表に生まれたばかりの赤ん坊と妻、裏には両親の写真が掲げられていて、「あなた」が直接的には家族の四人であることを示唆している。二度目の結婚をして長男が生まれて、ひとまず穏やかな新生活の中で生まれた作品群といえるだろうが、その内容は決して単純なものではない。まず詩集巻頭作品「悲しみは」を引用する。
悲しみは／むきかけのりんご／比喩ではなく／詩ではなく／ただそこに在る／むきかけのりんご／悲しみは／ただそこに在る／昨日の夕刊／ただそこに在る／熱い乳房／ただそこに在る／夕暮／悲しみは／心を離れ／ただそこに在る／今日のものたち
「悲しみ」という感情をどれほど真剣に探求していたかを窺わせる一篇だ。また、その結果、「悲しみ」がいかにも即物的な（なんなら「実存的」と呼んでもいい）純粋感情として位置づけられていることが分かる。『二十億光年の孤独』の「かなしみ」と並ぶ、初期「悲しみ」詩篇の代表作と呼べるだろう。
一方で、この詩人には珍しい感情を激しく煽り立てた作品もある。詩「頼み」の冒頭を引く。
裏返せ 俺を／ 俺の中の畠を耕せ／俺の中の井戸を干せ／裏返せ 俺を／俺の中身を洗ってみな／素敵な真珠が見つかるだろう／裏返せ 俺を／俺の中身は海なのか／夜なのか／遠い道なのか／ポリエチレンの袋なのか／裏返せ 俺を
「裏返せ 俺を」が執拗なリフレインとなって詩人のオブセッションを奏でている、といった趣きだが、自筆年譜（岩波文庫所収）に「相当生活に疲れていた」とあるように、多忙による疲労と焦燥が背景にあったのかもしれない。この頃、詩作と並行して演劇やラジオドラマ、子供の歌や校歌などの仕事を次々とこなしていた。詩と生活の相克といえばいいだろうか。
裏返せ／裏返してくれ 俺を／俺の中の言葉たちを／喋らせちゃってくれ 早く／俺の中の弦楽四重奏を／鳴らしちゃってくれ／俺の中の年とった鳥たちを／飛ばしちゃってくれ／俺の中の愛を／すっちゃってくれ 悪い賭場で／／裏返せ裏返してくれよ俺を／俺の中のうその真珠はくれてやるから／裏返してくれ裏返してくれよ俺を／俺の中の沈黙だけはそっとしといて／活かせてくれ俺を／俺の外へ／あの樹蔭へ／あの女の上へ／あの砂の中へ（末尾部分）
いくぶん駄々っ子的な口調とダダイズム的なイメージの連鎖によって心情を素直に吐露しているかのようだが、それでも「俺の中の沈黙だけはそっとしといて」と、沈黙と静寂を重視する谷川詩学は健在だ。
それにしても、一見幸福で平穏な（表紙写真が物語っているような）佇まいの中に潜む不穏な崩壊感覚が気になる一冊であることを、例えば次のような作品から感じ取る読者は多いのではないだろうか。
いちばんはじめに大きな手で／誰かがいつぺんに積み上げた／それからは崩れてゆくだけ／毎日毎日少しずつ崩れてゆくだけ／呼んでも駄目叫んでも駄目／だが崩れてゆくのを知りながら／その間にすることは無限に残される／汗をかきすすり泣き大声で怒り／崩れてゆくものの上で夜を眠り／ただいつまでも崩れてゆく日々（「崩れる」）