歌と呪縛と構造記憶

（「びーぐる」第３０号）

山田兼士

「心に残る言葉」といえば、多くの人が歌を思い浮かべるのではないでしょうか。短歌や和歌のことではなく、メロディがあってリズムのある歌、それもクラシックやジャズではなく歌謡のこと。自意識が芽生えて自分で音楽を選ぶようになる思春期以後は別として、また、子守唄や遊び歌や幼稚園や小学校での唱歌も除外するなら、私たちの世代が幼少期に耳にした歌は、たいていラジオやテレビや商店街などで流れてきて自然に聞かされていたものです。

　私たちの世代が生まれ育った昭和後半は、歴史上前代未聞の歌謡の時代でした。いわゆる昭和歌謡全盛の時代に幼少期を過ごした者として、この記憶／記録を後世に残すことは意外と重要なのではないでしょうか。最初はおもにラジオから、次にテレビが加わって、毎日同じ歌を繰り返し耳にすることも稀ではありませんでした。言うまでもなく、言葉はリズムとメロディを伴うことで記憶と印象に訴えかける力を増幅します。まして、記憶の総量が未だ僅かしかない（空き容量が十二分にある）子供の頭脳に歌が入り込む余地はいくらでもあるでしょう。時にはあるフレーズが曲を伴ってオブセッションのように取り憑いて離れない、ということもあったし、今でもあるようです。歌は必ず呪縛力をもつ。その呪縛をめぐって、今回は気楽な姿勢で自分のことを書いてみようと思います。この機に乗じて、普段はまずしない自作詩解説を試みようとの下心も（いくぶん、いや、かなり）あります。

　昭和二十八年生まれの私が最初に自分自身の記憶として、ということはひとから教えられた後付の記憶としてでなく、という意味ですが、はっきりと覚えている歌謡は、コロムビア・ローズが歌った「東京のバスガール」（昭和三二年、詞・丘灯至夫、曲・上原げんと）。今でも一番の歌詞はすべて覚えていますし、この歌がラジオから流れていた時の情景の一つは明確に記憶に残っています。場所は自宅の四畳半。病気で臥せっている祖母を相手にメンコ遊びをしていました。その時の情景を比較的最近になって詩にしたので、その一部を引用します。

野辺の送りで叫ぶ

三才児の空気読み過ぎに

微笑と失笑とすすり泣きが交差したと

後日母から聞いた話

その数日前

こどもは病気の祖母に遊んでもらっていた

森永の錆びたミルク缶のふたに

（ヒ素ミルク事件の一年後だった）

シッパン（メンコともいう）を打ち付ける

祖母の手は

あまりに枯れて細かった

ラジオではコロンビアローズが

――発車オーライ　明るく明るく走るのよ

（『家族の昭和』二〇一二年、澪標、より「野辺送り明るく明るく走るのよ」部分、以下引用はすべて同詩集より）

　これを引用しているうちに妙なことに気づきました。「東京のバスガール」の発売は昭和三二年十月。ということは、私は四歳のはず。祖母が亡くなったのは私が三歳の時と記憶していますから、ラジオから聞こえていたのは別の歌ということになります。どちらかが記憶違いということ。年齢か。歌か。両親も兄もいなくなった現在では確認するのは容易ではありませんが、例えば大垣の実家の墓地へ行けば確かめられるでしょう。あるいは仏壇とか。ただ、今はっきり断言できるのは、死の床の祖母と遊んだ時にラジオから流れていたのはたしかに「東京のバスガール」だったこと（模造記憶？いや、それでも）。その時の祖母の枯れた手のことや、森永粉ミルクの錆びた缶のことや、襖に貼られた薬屋のチラシに「そろばんをなげ出した」と印刷されていたことなどが、さらには大川をはさんだ野辺送りの情景も、その歌に合わせて何度となく蘇ってきます。その組み合わせでなければ、祖母の死という子供心にも暗い現実と「東京のバスガール」の底抜けに明るい歌声との対比構造が崩れてしまう。もしかすると、いつの間にか二つの要素が合成されたのかもしれませんが、だとすれば歌の呪縛力（歌の記憶が現実をも変えてしまう）の一つの証明かもしれません。

　次に挙げるのは、より記憶が鮮明な九歳時のこと。

九月のよく晴れた昼下がり

テレビは自転車に乗ってやってきた

兄ちゃんが早速

ちゃぶ台の上に据え付けた

もちろんすぐには映らない

（母ちゃんなぜ持ち帰った）

（中略）

見えたのだ　

聞こえたのだ

じゃがいも顔の若者が

奇妙な発声で歌う

耳慣れた歌が

――涙がこぼれないように……

九ちゃんに初対面の

九才のこどもは

涙をこらえて

父ちゃんの帰りを

待っている　　　

（「テレビは自転車に乗って」部分）

　坂本九が歌った「上を向いて歩こう」（詞・永六輔、曲・中村八大）のレコード発売は一九六一年十月、アメリカのビルボードで週間一位になったのは一九六三年六月ということですから、一九六二年九月のある日にテレビから九ちゃんの歌声と顔が飛び出してきた記憶に無理はないですね。さんざん頼み込んでようやく買ってもらったテレビに映像が映った瞬間、涙ぐんでいた記憶が「上をむいて歩こう」という歌謡に結びついています。ただし、本当に自宅で初めて見た映像が坂本九だったかどうかは怪しものです。これは模造記憶かもしれませんが、その当時の視覚と聴覚の記憶を凝縮するとこうなるということでしょう。

　最後にもう一つ、これは母の会社の慰安旅行に同行したバス中でのこと。十一歳の時です。

母がおずおずと歌い始めたのは

｢悲しい酒」空気読めない

酒を飲めない母のソプラノは

なぜか情感たっぷり

続いてぼくが歌ったのは

吉永小百合＆三田明

｢明日は咲こう花咲こう｣空気読みすぎ

（「勝浦で明日は咲こう花咲こう」部分）

「明日は咲こう花咲こう」（詞・西沢爽、曲・吉田正）は一九六五年四月の発売。このバス旅行の時に最新ヒット曲だった記憶に誤りはありません。一緒にバスに乗っていた、母の同僚のおばさんたちの顔や声や風体もよく覚えています。手拍子のリズムが大きく狂っていたことも。もちろん、当時はカラオケなどなかったので、バス内での歌唱はすべてアカペラでした（あるのはマイク一本だけ）。一方、「悲しい酒」（詞・石本美由起、曲・古賀政男）の発売は一九六六年六月とのことなので、これは明らかに模造記憶またはフィクションです。美空ひばりが好きで幾分音痴な母のソプラノが後の「悲しい酒」に被ったのでしょう。

　こうして見てくると、歌の呪縛力というのは過去のイメージを蘇らせると同時に、近接的周辺的な記憶にまで影響を及ぼしていることが分かります（私だけでしょうか？　いえ、おそらく多くの人にとって）。実際の記憶と連想から成る模造記憶と。これら両者が融合した記憶を「構造記憶」とでも呼べばいいでしょうか。事実と虚構が微妙に入り混じった結果としての構造記憶。そういえば、私たちの詩歌もまた、多くはこうした構造記憶から発しているような気もしてきます。昭和後半育ちの世代にとって、そうした構造記憶のかなり深いところに昭和歌謡が居座ってきたこと、それにこれからもまたおそらく居座り続けだろうことは、たぶん間違いありません。