都市における群衆と分身について 詩学的考察
（「PO」2014年冬号）
山田兼士
はかない時代だね
せめて君だけは 私をみつけて
叫び声紛れ 群衆 （中島みゆき「群衆」）
現在において〈都市〉を語ることになんらかの文学的価値を求めるなら、まず〈群衆〉について語らなければならない。現代の歌姫が見事に要言しているように「はかない時代＝現在」とは〈群衆〉が二人称で語られ歌われる時代である、とまず定義してみよう。
現代の始め、〈群衆〉は擬人化された三人称で人々の間に出現した（Ｅ・Ａ・ポオの短編「群衆の人」）。次いで一人称で〈群衆〉と交感する詩人（ボードレールの散文詩「群衆」等）が登場し、それと前後して〈群衆〉と〈私〉の間を往き来する詩人が次々と現れ、それぞれの時代と風土を生き、浮遊し、告発し、証言し、そして消えていった。そしてポオの〈群集〉から約百五十年ほどを経た一九九〇年頃、〈群衆〉は次のように二人称で語られ（歌われ）る〈他者〉としての地歩を獲得した。
はかない花たちよ わけもわからずに
流され 流され 織りなすモザイク
（中島みゆき「群衆」）
この一節を、例えば百五十年ほど前に書かれたボードレールの次の作品と比べてみよう。
閃光―次いで夜！ ――つかの間の美女の
眼差が突然ぼくを生き返らせたのに、
もう永遠の中でしかきみに会うことはできないの？
他所で、ここから遠く！ 遅すぎる！ たぶん 絶対に！
きみの逃げ先を知らないぼく、ぼくの行き先を知らないきみ、
おお、ぼくが愛したかもしれないきみ、おお、それを知っていたきみ！
（ボードレール「通りすがりの女に」部分、拙訳）
街で遭遇した美女に宿命的な愛の可能性をふと思ってみる。だが次の瞬間、彼女は永遠に見失われている。〈群衆〉との遭遇とは、無数の可能性を絶え間なく消費し続ける喪失の連続なのだ。現在を生きる私たちは、いわば瞬間ごとに無数のエウリュディケーを失い続ける、永劫のオルフェウスである。この喪失の場としての遭遇＝関係の諸相を縦横に編み上げた現在を、現代の歌姫は｢織りなすモザイク｣と呼ぶ。
〈他者〉との確執をあくまで執拗に、個としての表現＝歌で描き続けてきた中島みゆきが、その歌の象徴性において到達した最も高次なイメージの一つが、この喩によって示されている。このイメージの独創性は、関係存在たる現代人の対他意識の全容を、ごく僅かなリズムのうちに封じ込めている点にあるだろう。「はかない花たち」が「織りなす」このモザイクを、私は〈他者性のモザイク〉と呼んでみたい。
「モザイク」とは何か。立体を構成単位とする「編み物」である。自己の横糸と他者の縦糸の織りなす編み物は、ここでは平面上の構造に止まるのでなく、立体的な要素を組み込んだ等身大のテキストとなっている。言い換えれば、自己の横糸と他者の縦糸に加えて、自己と他者との関係性そのものが垂直軸をなすことによって、三次元の編み物が織り込まれているのである。まるでバード・アイを備えてでもいるかのように、だがあくまで地上を遍歴する個人的視線をも手放すことなく、歌姫は現在を歌いかつ描くことに執着し続ける。この執着は現在を浮遊する私たちにとって非常に重大な何かを暗示しているように思われるのだが、それを一言で述べるのは容易ではない。ひとまず私個人の偏愛するイメージ群をアナロジックなサンプルとして、「織りなすモザイク」の、より重層的な意味を探ってみることにしたい。
＊
言うまでもなく〈群衆〉とは、少なくとも現代的な意味においては、都市の成立と切り放せない現象である。都市の出現によってはじめて、無作為の集団としての〈群衆〉が誕生した。祭りや集会や戦争といった明確で単一的な目的のためでなく、それぞれが異なった目的をもち、あるいは目的をもたず、個としての存在に止まりつつ集合体を成しているのが、現代的意義における〈群衆〉というものだろう。街路で、駅で、デパートで、ホテルで、公園で、さらにはインターネット上で、私たちが日々出会い、自らもその一部となりながらほとんど関係を意識することもなく、それでいながら関係を保ち続けている相手が〈群衆〉である。
十九世紀の前半、いちはやく産業革命を成し遂げて〈現代〉を出現させたロンドンの巷で、アメリカの詩人は〈群衆〉の無意味さと、不気味さと、そして不可避さを、一冊の解読不能の書物に譬えて次のように表現した。
あの老人は一人でいることに堪えられない。いわゆる群集の人なのだ。後を尾けてもなにになろう。彼自身についても、彼の行為についても、所詮知ることはできないのだ。人間最悪の心というものは、あの『心の園』よりももっと醜悪な書物であり、おそらくそれがついに解読を許さない
es lässt sich nicht lesen ということは、むしろ神の大きな恩寵の一つなのではあるまいか。
（ポオ「群集の人」中野好夫訳）
〈群衆〉は、〈現代〉の始めにおいて、「解読を許さない」書物、つまり未知なる他者と認識されたのだった。近代以前の人々にとって、森が妖怪や精霊や魔物に満ち溢れた異界であったように、現代人にとっては出現したばかりの都市という人間の森が、すぐそこにある異界であり、〈群衆〉こそ、その森を徘徊する魔物に外ならなかった。ポオの〈群衆〉がまさに「群集の人」として擬人化され得るような、一種の抽象概念であるのは、こうした異界のイメージが、始めて現代的意義を担ったものとして把握されたことの証である。最初にも述べたように、〈群衆〉はまず、三人称で語られるべき存在の違和として認知されたのだ。
ポオがアメリカ人でありながら、ロンドンで、存在の違和としての〈群衆〉を発見したのとほぼ同じころ、ニューヨークではホイットマンが、新奇なる現象としての〈群衆〉に好奇の眼差しを向けながら、こう歌った。
普段着を着た男たちの群よ、君がぼくには心底珍しく思えてならぬ、
渡し船に乗って川を渡り、家路につく幾百人と群がる君らが君らの想像以上にぼくには珍しい、
そして何年もたったのち岸から岸へと渡ることになる君らも、おそらく君らが想像する以上に、ぼくにとっては大切なもの、しばしばぼくをもの思いにふけらせるもの。
（ホイットマン「ブルックリン渡船水路を渡りつつ」
『草の葉』所収、杉本喬、鍋島能弘、酒本雅之訳）
ポオにとって違和であったものが、ホイットマンにとっては「珍し」さであるのだが、この好奇心は、〈群衆〉を前にしての驚きであると共に、未知への期待にあふれた感情でもあった。一言で述べるなら、ポオにとって謎と認識された〈群衆〉がホイットマンにとっては希望の表象にほかならなかった。ボードレールの詩の一節を借りるなら、「〈未知〉の底」に潜む「新奇」（詩「旅」）への欲動が、ホイットマンによって記された、といえる。
〈群衆〉の渦の中に潜む謎と新奇は、ポオの「群集の人」から約二十年後のパリで、最初は（ポオの場合と同じく）違和感のままに、次いで（ホイットマンの場合のように）新奇なる異界への憧れというべきエントロピーによって、そしてついに全面的なコレスポンダンスの決意によって、ある種のイロニックな親和感に置き換えられることになる。ボードレールの三つのテキストを、手短に引用してみよう。
（１） ――なんだと！それではいったい、おまえは何が
好きなんだ、世にも不思議な異邦人よ？
――私は雲が好きだ……ほら、あそこを……あそこを……過ぎてゆく雲……すばらしい雲が！
（「異邦人」）
（２）しかし、いかに深く、忘れ難い視線を、この男は
群衆と光明との上にさまよわせていたことだろう。それなのに人の波も光の波も、この厭わしい悲惨の数歩前まで来ると、ぴたりと止まってしまうのだった。 （「年老いた大道芸人」）
（３）群集、孤独。能動的で豊饒な詩人にとって、等価
にして互換性のある言葉である。自らの孤独に人々を住まわせることのできない者は、せかせかした群衆の中で独りでいることもできないものだ。
（「群衆」）
（１）で「謎めいた人」と呼ばれる「異邦人」とは、実は詩人自身の〈魂〉の喩であるのだが、同時に、詩人にとって全き新奇なる存在（それ故に不可思議で曖昧な存在）としての、〈群衆〉――あるいは詩人自身の〈群衆性〉――のことでもある。詩人は己自身の内なる〈群衆〉に向けて違和と偏差の確認を試みている。
（２）に登場する「大道芸人」もまた「異邦人」と同様に、ボードレールが描いた数多くの自画像の一つと見られるのだが、ここで興味深いことは、この人物が〈群衆〉に向ける視線の両義的な意味合いである。彼は〈群衆〉に深い好奇の眼差しを向けるが、「人の波」は彼の手前で急ブレーキをかけて止まってしまう。一見、詩人と〈群衆〉との隔絶感を表現しているようにも思われるが、実はこの隔絶感は、〈未知〉への憧れとまったく同義なのである。なぜなら、〈群衆〉もまた詩人の自画像にほかならないからだ。
（３）に表明されている〈群衆〉と〈孤独〉の等価性と互換性は、以上のような自己認識から導かれた一つの現代的選択を宣言している。ボードレールがしばしば言及する「聖なる売淫」――不特定多数との霊的婚姻――が倫理として成立するのは、顔をもたぬ〈多〉としての〈他者〉の中に敢えて全身をもって参入を決意する態度が、間主体存在としての現代人の存在様式を予言していたからだ。私たちは、顔をもたない無数の〈他者〉のネットワークに全身を包み込まれて生きている、しかも同時に、私自身があなたを取り巻く〈他者〉のネットワークの一部であり、あなたもまた……、というように、自己と他者の網の目は、世界そのものの縮図として、ポオのいう「解読不能の書物」を相互に生産し続けてやまない。これが現代人の宿命ならば、選ぶべき最良の方法とは、こうした宿命を肯定するのでも否定するのでもなく、限りなく続く懸垂状態の中で軽やかに、かつ切実に戯れることではないか。
ボードレールの自己認識は、〈群衆〉をも自らの自画像の一つとして受容することによって、〈他者性の詩学〉とも呼ぶべき新しい表現倫理を確立した。ここでその内実に踏み込む余地はないが、たとえば散文詩集『パリの憂愁』の巻末を飾る「善良な犬たち」などは、「猫」的存在たる（近代的な意味での）詩的個我と「犬」的存在たる（現代的な意味での）他者との統合――ということは、調和と融合による同化のコレスポンダンスではなく、破調と分裂を前提とする異化のコレスポンダンスによる結合を意味しているのだが――を、限りなく精緻に織り上げた編み物と呼ぶべきだろう。
＊
私たちが生きている現在において、他者との全面的コレスポンダンスとは、同化によってではなく、むしろ異化を認識するところから始まるものかもしれない。婚姻とは、〈多〉が〈一〉になることでなく、〈一〉と〈多〉を同時に認知することなのだ。現代の私たちは、中島みゆきが歌うように、「だれだって旅くらい一人きりでもできるさ／でも、一人きり泣けても、ひとりきり笑うことはできない」（「ＷＩＴＨ」）のだから、そしてバタイユが語るように「真理とは、笑いの中にこそある」（『内的体験』）のだから、〈群衆〉と〈孤独〉は、かぎりなく可塑的な実体としてとらえられなければならない。なぜなら、それは現代人にとっての〈宿命〉なのだから。
〈群衆〉の織りなすモザイクを、私たち現代人の〈宿命〉として描き出すのに悪戦苦闘を続けた詩人は、日本にも多く登場した。おそらくその最初の人物は、萩原朔太郎だっただろう。たとえば、彼が描いた次のような情景は、今の私たちにとっても、ごく身近にかつ切実に感じられるものではないだろうか。
私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のようなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
（萩原朔太郎「群集の中を求めて歩く」）
「ふらんすへ行きたしと思へども／ふらんすはあまりに遠し」と歌った前橋のモダンボーイ萩原朔太郎が、あの徹底して自己完結的なペシミスムの書『月に吠える』（大正六年）の刊行にもかかわらず、その直後に、相変わらずこのような能天気ともいえる作品を書いていることに、意外さや、まして失望を感じる必要など、まるでないのだ。自己意識の深淵での闘いが熾烈であればあるほど、（たとえ一時的にせよ）他者への欲動が激しくなることは、ボードレール詩学の構造原理をなす「憂愁」と「パリ」の対位をみても明らかなように、現代人の必然であるからだ。ましてこの時代、未だほとんどの田舎者にとって都会が〈未知〉なる新奇だった――つまり〈現代〉が未だ幼年期にあった――日本の状況を想像してみれば、詩人が自己意識内での閉塞状況をそのまま田舎の閉鎖性に重ね合わせて見ていたことも、また、都会における〈他者性のモザイク〉を自意識からの開放と見ていたことも、十分にありうることのように思われる。第二詩集『青猫』がその憂鬱なイメージの数々にもかかわらず（あるいはむしろそれゆえに）他者性に身を委ねた詩集になっていることと、〈群衆〉への手放しともいえる肯定的気分とのあいだには、明らかな因果関係がみられるだろう。
だが、大正六年（一九一七）に都会への欲動にみちた旅人の眼差で〈群衆〉をとらえていた萩原朔太郎が、その十余年後に――ということは、都会での生活に破れて失意のうちに郷里に戻り、そこから再び「旅人」として都会を見る眼差を取り戻してから、ということだが――次のように哀愁にみちた旋律を奏でていることは、意外と注目されていないようだ。
明るき四月の外光の中
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乗れど
君の円舞曲は遠くして
側に思惟するものは寂しきなり。
（「遊園地にて」）
〈群集〉の中にいて寂寥と疎隔感を覚え、虚無の実感を表現せざるをえない気分は、ボードレールの「年老いた大道芸人」の場合と同じだろう。「君の円舞曲は遠くして」とは、己の数歩前で「ぴたりと止まってしまう」人波と同様に（ワルツとはそもそも波のようなものだ）、他者（＝君）の曖昧さ、無気味さ、わからなさを暗示している表現とはいえないだろうか。「群集の中に」混じっている「ふたり」はすでに〈他者性のモザイク〉を織りなす〈群衆〉そのものである。つまり、「君」とは〈群衆〉の化身にほかならないのだ。
＊
それにしても、なぜ〈群集〉が「波」なのだろう。それは、都市が人工の自然であるからだ。ボードレールがパリを新奇なる「海」に譬えたように、〈未知〉なる領域としての現代都市が「海」であるならば、そこに林立する建造物は島であり船であり、そこを徘徊し流動する〈群衆〉こそ「波」（＝人波）に譬えられるべきだろう。しかも、この「波」は「人の波」であるというまさしくその理由によって、捕捉不可能で曖昧な輪郭しかもっていない。人の心の深淵は誰にも覗けない。ならばこの「波」は、もう一つの現代的なモチーフに結び付くはずだ。
思春期に少年から大人に変わる
道を探していた 汚れもないままに
飾られた行きばのない 押し寄せる人波に
本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio
(徳永英明｢壊れかけのRadio｣)
不特定多数の〈他者〉とのコミュニケーションをいともたやすく実現し〈他者性のモザイク〉を日常的に織りなす媒体としての電波こそ、現代における「人波」そのものの顕現というべきだろう。「壊れかけのRadio」とは、その「電波＝人波＝他者」の発信装置であるとともに、その装置の危うくも脆い本質を見事に言い当てているメタファーだ。 そういえば現代の歌姫もまた、こうした危ういメディアの中で「ディスク・ジョッキー」と呼ばれる道化（大道芸人）を演じることによって、〈他者性のモザイク〉を織りなし続けていたのではないだろうか。
私特技はハイジャンプ 私苦手は孤独
たまに虚像の世界を翔びたいだけ
（中島みゆき「ショウ・タイム」）
私たちの時代にあって〈孤独〉はもはや〈群衆〉の反意語ではなく、それぞれが互いの半身にほかならない。「壊れかけのラジオ」とは「虚像の世界」に飛翔してくる「声」と化した〈他者〉の換喩であり、その発信者も受信者も同様に、〈他者性のモザイク〉を織り続けるわれわれ現代人の寓意にほかならないのである。百五十年前の詩人の、
群集、孤独。能動的で豊饒な詩人にとって、等価にして互換性のある用語である。
（ボードレール「群衆」）
という予言を告知するかのように、現代の歌姫は今日も〈群衆〉に向けて歌い続けている。
ああ、流れてゆく
車のヘッドライトは天の川
ああ、流れてゆく
人の心も天の川
三分後に捨ててもいいから
今だけそばにいて
（中島みゆき「三分後に捨ててもいい」）
本当は「そばにいて」ほしいと願っている相手は「あなた」なのだけれども、その「あなた」は確固たる人格と自己同一性をもつ「あなた」ではなく、いわば群衆と化した「あなた」なのだ。フランス語の
vous が「あなた」であり「あなたたち」でもあるように、「あなた」とは〈多〉としての〈個〉のことだ。「あなた」がそれでもなお「人の心」をもつものなら、「今だけ」ですべてを歌い尽くさなければならない。なぜなら「三分後」にあなたはいなくなってしまうのだから。
＊
現代における〈群衆〉というテーマは直ちに〈分身〉というテーマに結びつくだろう。
一般に西洋の近代において、分身物語の先駆者はドイツ・ロマン派のＥ・Ｔ・Ａ・ホフマンだといわれているが、ホフマンの作品「分身」は、中世以来の分身伝説を近代小説の枠内に再現したという功績は見逃せないものの、全体としてはやはり民話・伝承的なメルヘンの領域にとどまるもの、と見るのが妥当だろう。我々現代人に直接かかわる問題をつきつけてくるような、つまり現代性を担った、分身物語ということになると、（またしても）アメリカの作家エドガー・アラン・ポオの作品「ウィリアム・ウィルソン」から始めなければならない。子供の頃から自分と同姓同名の男につきまとわれて、なにかというとあと一歩のところで邪魔されてきた主人公が、最後にとうとうこの仇敵を刺し殺す、という話だ。最後の場面だけ引用する。主人公がライヴァルを部屋に閉じ込めて決闘の末に刺し殺したところである。
今の今までそんなものはありもしなかった場所に、大きな一枚の鏡――狼狽のあまりとはいえ、たしかに最初はそう思えた――が立っている。しかも恐怖のあまりそれに近づいてゆくと、向うからも僕の姿、だが顔色は土気色になり、血塗れになったのが、足許も危うくよろよろと近づいてきた。（中野好夫訳）
さすがにポオらしく、巧妙な仕掛けが施されている。 この描写の仕掛けとは、一言でいってしまえば、現実と幻想を逆相においてとらえている、という点にある。すれっからしの現代人なら、当然この場面は、鏡に映った自分の姿を見ているところで、ただそのことに主人公が気付いていない、言い換えれば聡明な読者である自分は気付いている、と思うことだろう。けれどもポオは、そうした読者の期待を先取りするかのように、最初に鏡についてふれておいて、ただちにこれを打ち消している。「むろんただそう見えたのだ。事実はそうでなかった。」というわけだ。そこにあるのが鏡でないとすれば、いったい何なのか。そこでこの場面は、正真正銘、相手の実在を強調するかたちとなり、いっそう幻想のリアリティが増すことになる。ところがこの後、物語の叙述はもう一度反転して、相手が「そっくりそのまま僕自身」であることを明示する。ここで、さきほど否定された鏡の存在が、もう一度可能性として読者の脳裏に浮かぶわけだ。要するに、この物語の全体は、主人公の異常心理が生み出した幻影にすぎないのか、あるいは、分身の実在を前提とする怪奇小説なのか。二つの読みの可能性が最後まで残されることになる。
もちろんポオは、ただの技術としてこんな手の込んだことをしたわけではない。ポオはおそらく、私たちが今日、多重人格だの群衆性だの複製だのアイデンティティの崩壊だのと呼んでいる自意識のありかたをすでに自分のものとして直観し、深刻に思い悩んでいた。その微妙な意識の揺れが、こうした語り口に期せずしてあらわれることになった、ということだろう。中島みゆきでいえば｢私の敵は私です｣（「ファイト！」）というところか。
＊
さて、ポオとほぼ同じころ、ロシアではドストエフスキーが「分身」という小説を書いている。アメリカとロシアという、当時のいわば辺境国家で、軌を一にして同じモチーフが描かれているのは、大変興味深い。ヨーロッパに追い付け追い越せと躍起になっていた後進国の、その後進性ゆえのラディカルな社会状況が、この二人の背景にあることを、念頭においておこう。ペテルブルグという人工都市はきわめてアメリカ的なものと言えるわけだし、ヨーロッパからみた辺境という点でも、農奴制と奴隷制が共に崩壊しつつある変動期という点でも、また、産業革命の急進的実践がもたらした社会不安という点でも、辺境都市の住人であるポオとドストエフスキーが、非常によく似た状況におかれていた、といえる。彼らにとっては、いわば環境そのものがあらかじめ引き裂かれていた。そしてそこに、現代人の無意識を鋭くえぐる〈分身〉のアレゴリーが構築される地場ができあがっていた。かなりおおまかな言い方だが、ひとまずそう認識しておこう。
ドストエフスキーの「分身」において、主人公ゴリャードキンの分身は、ウィリアム・ウィルソンの場合とは異なって、少年時代からの旧知の仲というわけでなく、ある日突然に生活の中に割り込んでくる。もちろん心理的な素地というものに着目すれば、分身、つまり二重人格の病原のようなものはすでに主人公の内部で確実に育っていた。「九等官」といういわば中間管理職候補のような微妙な社会的地位とか、中年に達しながら未だに独身であることとか、自尊心と自己卑下に引き裂かれた曖昧な性格とか、社交会での大失態とか、人格が分裂しそうな要素はすべてそろっているように描かれている。ただ、ふつう人は、だからといって〈分身〉に出会ったりはしない。ゴリャードキンの夢の中で馭者が言うように、「れっきとした人間は、どうかして正直に暮らそうとしているので、怪しげな真似はするもんじゃありません。一人の人間が二重になるなんて、そんなことがあるもんですか」（米川正夫訳）と、いうわけだ。
ゴリャードキンが分身に出会う最後の決定的な要因は、いかにもドストエフスキーらしく、幻想的にして写実的、抒情的にして劇的な場面が描かれる第五章に出揃うことになる。ペテルブルグという北方都市の幻想性、十一月の深夜、雨模様の悪天候、洪水の恐怖、ひとけのない街路、といった状況設定が、魔物の出現を予告するように巧みに描かれている。例えば、
それは恐るべき夜であった。――十一月特有の、湿った、霧の深い、雨まじり雪まじりの夜、――炎症、鼻カタル、おこり、扁桃腺炎、ありとあらゆる種類の熱病、ひと口にいえば、ペテルブルグの十一月の贈物を、ことごとくもれなくはらんでいる夜だった。風はがらんとした人気のない街々を咆哮して、フォンタンカの水を、もやい用の鉄環よりも高く持ち上げ、河岸通りの痩せひょろけた街燈を意地悪くゆすぶっていた。すると、街燈はまた街燈で、か細い刺すようなきしみ声を立ててこれに応じる。こうしてすべてが、ペテルブルグ住人にいたって馴染みの深い、はてしのない悲鳴に似た、ひびの入ったような交響楽となるのであった。（米川正夫訳）
実にみごとに「魔の出現」の現場を描きつくしている、というべきだろう。同時に、類いまれなユーモアにもあふれていて、この第五章だけでも十分に詩的散文の佳作として通用する名文だと思う。私たちの身辺にあふれているような、表面をくすぐるだけの軽薄な笑いではなく、繰り返し読んでいるうちにおかしくてしかたなくなるような深いユーモア、とでもいえばいいだろうか。例えば、分身を目の前にして気付いたような気付かないようなわけのわからない反応を示すゴリャードキンの様子とか、それをわざとすっとぼけて平然と書き進める作者の渋面ぶりを暗示しているような文体や、すでに明らかであるにもかかわらず「分身」の命名を先送りに引き延ばす皮肉な語り口など、シュルレアリスムよりはるか以前に黒いユーモアをみごとに実践している。ゴーゴリの「鼻」や「外套」などもそうだが、五十年オチのギャグ、百年オチのジョークとでもいえばいいのか、ロシアの作家のユーモアというのは実に射程の長いものだ。
さて、この第五章でゴリャードキンは「旧ゴリャードキン」と「新ゴリャードキン」に分裂し、以下の章で「旧ゴリャードキン」はこの新参の「新ゴリャードキン」にしだいに生活圏を脅かされ、最後には社会から抹殺されて精神病院に強制収容されることになる。だからこの小説は、乱暴に要約してしまえば、旧人類が新人類にしてやられていく物語、ということになる。じっさい「新ゴリャードキン」はあらゆる意味で「旧ゴリャードキン」と正反対の人物として描かれ、行動は軽佻浮薄にして要領よく、上司にたいしては如才なく、同僚には世故にたけ、あらゆる面で「旧ゴリャードキン」を出し抜いていく。勿論読者の感情移入は終始「旧ゴリャードキン」にあるわけで、その意味でこの物語は悲劇とみなされるわけだが、にもかかわらず、あまりに優柔不断で要領の悪いこの人物にある種軽蔑の混じった残酷な笑いを禁じ得ないのも事実だ。このいささか戯画化された「旧ゴリャードキン」もまた、「新ゴリャードキン」とはまた別の意味で「現代人」の代表であり、新人類のいわば亜種といえるのではないだろうか。事実、ドストエフスキーは後年の長編傑作群において、このキャラクターの変種というべき数々の人物像を描き出していくことになる。「地下室の手記」の地下生活者も「罪と罰」のラスコリニコフも「白痴」のムイシュキンも、みなこの「旧ゴリャードキン」のヴァリエーションに思われてならない。
＊
さて、ここでフランスにも目を向けておこう。ポオ、ドストエフスキーとほぼ同じころに分身を扱った作家にジェラール・ド・ネルヴァルがいる。｢オーレリア｣の一節を引用する。
おそろしい考えが頭に浮かんだ。「人間は二重なのだ」と、私は思った。――「私は自分の中に二人の人間を感じる」と或る「初期キリスト教会の教父」が書いている。二つの霊魂が結合して一つの肉体の中にこの複合胚種をおろす。この肉体自身、体内のすべての器官の中に再現される二つの相似的部分をもつように思われる。どんな人間の中にも、観客と俳優、話す者と答える者とがいる。東洋人はそこに善霊と悪霊という二人の仇敵をみたのだ。「ぼくは善いほうのやつか？ それとも悪いほうのやつなのか？」と自問した。（稲生永訳）
さすがに十九世紀フランスは先進国家でしかも理性重視、ユマニスムの国なので、ドイツやロシアやアメリカのように怪奇性をいきなり持ち出したりはしない。ネルヴァルにしても、怪奇と幻想の作家などと誤解されている面もあるが、実はきわめて理知的な詩人であって、あの有名な『幻想詩篇』にしても、膨大な知識の集積から生まれたものであることが現在では明らかにされている。今挙げた一節でも、いきなり分身を登場させるような野蛮なまねはしないで、主人公の聡明な理性がとらえた魔の実在性をめぐる思索というかたちで「分身」が示されるわけだ。しかもこれが狂気の発作にみまわれて入院している最中に書かれたものというのだから、いっそうの驚きである。この後、主人公は「分身」が自分になりかわって恋人と結婚式を挙げる場面を想像して身もだえするのだが、その描写でさえ非常に醒めた理性を感じさせずにはいない。要するに、幻想のただ中にあってなお精神の明晰性を失わないこと、狂気と錯乱にさえ理知のはたらきが介入してしまうこと、これがフランス的明晰さといえばいいだろうか。この点については、ボードレールでもランボーでもロートレアモンでも同様であって、幻想の背後には常に知の集積回路がはたらいていることに注意しなければならない。ここではもう一例、モーパッサンの短編「オルラ」を見ておこう。
そもそもこの二重生活というのは、われわれのうちに二個の存在が宿っているからだろうか、それとも、一つのふしぎな、不可解の、眼に見えぬ存在があって、それが時あって、われわれの精神力の鈍るのを見はらかい、われわれの肉体を、われわれ以上に、自由自在に操縦するからであろうか？（青柳瑞穂訳）
ネルヴァルの場合と同じように、やはり主人公は考え、思いあぐねている。ポオやドストエフスキーと比べて一番大きな違いは、「分身」が最後まで物語に登場しないということである。ではなぜ分身物語なのかといえば、終始一貫して「分身」の存在が暗示されているからだ。ネルヴァルの「オーレリア」と同じく、主人公の手記というかたちで内面の描写が続けられていくのだが、具体的にはほとんど何ひとつ怪奇じみた出来事は起こらない。あえて挙げるなら、寝る前に用意しておいた水差しの水が自分でも気付かぬ間になくなっている、ということぐらいなのだが、これにしてもよくある夢遊病の一症例として片付けられる程度の不思議さにすぎない。ところが、この作品がどういうわけか非常に恐ろしい、奇妙な違和の感覚を読者に与えるのだから、不思議なものだ。目には見えないが超自然の世界に住んでいる「オルラ」という魔物が主人公に取りついていて、どうやらそれが彼の「分身」の正体であるらしい。最後に主人公はこの「分身」を家に閉じ込めるのに成功して、火をつけて焼き殺そうとするのだが、結局この作戦は失敗に終わり、絶体絶命の苦しみのうちに作品は終わっている。
＊
こうして見てくると、どうも分身というのは不吉で暗い運命をもたらすばかりのようだが、分身物語というのはそう不吉なものばかりともかぎらない。これまでの分身物語はいずれも中世以来の伝説、つまり分身との出会いは身の破滅をもたらすもの、少なくとも二人のうち一方は消滅しなければならないもの、という原理に沿って進行していたように思われる。この点は十九世紀末になってもやはり同様で、イギリスに目を移して、スティーヴンソンの「ジキル博士とハイド氏」を見ても、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの画像」を見ても、やはり最後は主人公の死で決着がついている。それともう一つ共通点を挙げるなら、いずれの場合も分身は一人にかぎられている、ということ。どうやらこのあたりが十九世紀小説の限界ということになりそうだ。要約していえば、主人公の破滅と分身の一個性、ということ。これはやはり、自我の統一的一貫性に執拗にこだわった十九世紀的発想法に根差したとらえ方と思われる。
今、十九世紀小説の限界と書いたが、ということはこの原則を越えた分身の領域というものが当然あるわけだ。つまり二十世紀以後の小説ということと、それに十九世紀でも小説ではないジャンル、つまり詩の領域ではどうなっているか、ということが次の問題となる。おそらくこれら二つの領域はたいへん深いところでつながっている。十九世紀の詩と二十世紀の小説は密接な関係にある、というのは長年の自説だが、「分身」のテーマについてもやはり同じことがいえそうだ。二十世紀中盤の短編小説を例に挙げてみよう。フィリップ・Ｋ・ディックの作品である。
ディックの初期作品に「この卑しい地上に」という大変ユニークな短編がある。主人公リックは、死んだ恋人シルヴィアを取り戻すため異世界に赴く。そこでシルヴィアの声を聞き、この世界に帰って来るように説得する。これはギリシア神話のオルフェウス物語のパターンだ。ただ、オルフェウスは禁を破って後ろを振り返ったために結局エウリュディケーを失うのだが、ディックの小説では恋人は無事にこの世に帰ってくる。というよりも、帰ってきすぎる――変ないいかただが……。ある異常な現象が起こって、リックはシルヴィアから逃げようとする。こうなると今度は｢古事記｣に出てくるイザナギ・イザナミの話のパターンだ。（どうやらディックは女性にたいする執着と忌避のアンビヴァレントな感情が非常に強かった人のようだが、こんなところにもその性質があらわれている。）その異常な現象というのは、なんとまわりの人々が全部シルヴィアになってしまう、というもの。最初にシルヴィアの妹が、それから父親と母親が、次々とシルヴィアに変身していく。異次元の世界から戻るときに他人の肉体を用いたために世界のバランスが崩れたということで、池に投げ入れられた小石の波紋のようにこの現象が世界中に広がっていく。その波と競走するかのようにリックは車を飛ばして逃走するのだが、やがてその波紋は加速度的に勢いをつけてどんどん広がっていく。たとえばこんな具合に。
目を上げると、シルヴィアがすぐ前に立っていた。腕組みをして、リックの背後のどこかをぼんやりながめている。彼女の耳には、あざやかな黄色の鉛筆がはさんである。栗色の髪をひっつめにしてあった。カウンターにすわったどの客の顔も、やはりシルヴィアだ。皿を前にして居眠っている者、食事している者、新聞を読んでいる者、そのだれもが、着ている服だけをべつにして、ほかのみんなとおなじ姿だった。（浅倉久志訳）
そこでリックはさらに車で逃走を試みる。すると、
明るい朝の道路にも、やはりおなじ姿の群れが目にとまった――早起きの通勤者だ。三々五々と連れだっていく靴音が、鋭い静寂の中にこだましていた。どのバス停にも、ひとかたまりになった彼女たちがいる。どこの家でも、彼女たちがベッドから起き、 朝食をとり、シャワーを浴び、着替えをしていることだろう――何百人、何千人、いや、無数の大群が。
というわけで、とうとう世界中がシルヴィアだらけになってしまう。こうなると美女だってゾンビと同じことだ。いくら好きなものでも大群となるとやはりこわい。萩原朔太郎の「猫町」に出てくる猫の大群や、ヒッチコックの映画の鳥の大群や、イヨネスコの戯曲のサイの大群や、東宝の怪獣映画「マタンゴ」のお化けキノコなど、こういう異常現象を描いた作品はけっこう多いのだが、この場合は相手が恋人だというところにことさら恐ろしい意味がある。
この小説の結末では、リック自身もシルヴィアになってしまう。これもイヨネスコの戯曲の場合と同じ構図になるわけだが、分身の無限増殖の行き着く果てはやはり個人の――というか自我の――解体もしくは消滅、ということだから、主人公破滅の原則はちゃんと守られていることになる。
ところで、伝記作家によると、フィリップ・ディックには双子の妹がいて、それが乳児期に亡くなっているらしい。分身に対する愛着と恐怖のアンビヴァレンツはこの原体験に根差している、という説が一般的なようだが、それにしてもこの無限増殖のイメージは、現代人に特有の病理とみなすしかない。この作品が書かれたのは一九五四年、イヨネスコの「犀」は一九五八年、ヒッチコックの映画「鳥」は一九六三年だから、おそらく全体主義の狂気に対する脅えとか、大量生産による複製時代への違和感とか、管理社会における個性の喪失とか、そういった現代人の自己意識に関する諸問題が、これらの作家たちの背景にあって、ほぼ同じ時期に同じモチーフを抱かせる、少なくとも遠因ぐらいにはなったのではないだろうか。
そういうわけで、十九世紀以来の伝統のひとつである分身の一個性という原則は、二十世紀の小説ではこのように打ち破られているわけだが、実は先程触れたドストエフスキーの小説にも、すでに、分身の無限増殖のイメージが登場している。といっても、ドストエフスキーの場合は、全体としてはやはり十九世紀的な分身物語の系譜をひいているわけで、分身の一個性の原則そのものが突き崩されているわけではない。無限増殖のイメージは、主人公ゴリャードキンが見る夢の中にあらわれる。
恥ずかしさと絶望の念に前後を忘れて、正直一途でありながら破滅の悲運におちいったゴリャードキン氏は、運を天にまかせて、足のおもむくままに駆け出した。しかし、その一歩ごとに、彼の足が舗道の花崗岩を踏むたびに、彼とそっくり瓜二つの堕落した心を持ったいまわしいゴリャードキン氏が、地中から出てくるようにひょいひょいと一人ずつ飛び出すのであった。しかも、このどこからどこまでそっくりそのままの人間が飛び出すが早いか、互いに後から後から走り出し、まるで鵞鳥の列のように長くつながって、旧ゴリャードキン氏の後からちょこちょこついて来るので、これらの自分にそっくり同じ人間どもをよけて逃げる所もないほどになった。真に同情すべきゴリャードキン氏は、恐怖のあまり息がとまりそうになった。とどのつまり、そっくりそのままの人間が雲霞のごとくふえてきて、はてはこの首都ぜんたいが、これらのそっくりそのままの人間どもで溢れそうになり、警官はかかる風紀紊乱を見てやむを得ず、このそっくりそのままの人間どもの襟首をつかまえて、手近にあった交番へ一人一人ほうりこまなければならない仕儀となった……恐怖のあまり五体が痺れ、氷のように冷たくなって、わが主人公は目をさました。（米川正夫訳）
天才に特有の予見性というか、先駆性というか、現代社会および現代人の病理をいちはやく見抜いていたとしか思われない描写である。どうして百五十年以上も前の作家にこんな情景が描けたかといえば、先述したように、当時のペテルブルグがきわめて人工的かつ現代的な管理社会の縮図みたいなところだったことと、それともう一つ、やや短絡的な言い方のようだが、おそらく彼が優れた詩人だったからだ。例えばランボーが詩人を見者――ヴォワイヤン――と定義したような意味での詩人だったからだ。たぶんドストエフスキーは、同じ年に生まれたボードレールと共に、十九世紀半ばにおける最大のヴォワイヤンだった。端的に言い切ってしまえば、二十世紀的情況をすでに見通していた、ということだ。
ドストエフスキーの「分身」から四十年後、スティーヴンソンが「ジキル博士とハイド氏」を書く。世紀末ロンドンを背景に、都会人の二重人格を主題にした典型的な作品だが、実はこの中にも分身の一個性を打ち破る可能性が示唆されている。主人公の手記の部分で、
――即ち、人間は実際には一ではなく、実は二である、という真理。
というところは分身の一個性の原則に沿っているわけだが、このあと、
私は、二、という、私自身の知識の現状はこれ以上に進んでいないからだ。今後他の連中が私を追い抜くだろう。人間は究極的には雑多な、矛盾せる、かつ個個独立したものの集合体にすぎないことがわかるだろう。（太田三郎訳）
というところで、「二」を越えた多数の分身の可能性が、分身の無限増殖の可能性が、暗示されていたのだ。
＊
ここで日本の詩人にも目を向けておこう。ここでは萩原朔太郎の初期詩篇をとりあげたい。いわゆる「浄罪詩篇」の直前に発表された作品で、例の「竹」の群生のイメージを予告しているもの。
死
みつめる土地の底から、
奇妙きてれつの手が出る、
足がでる、
くびがでしやばる、
諸君、
こいつはいったい、
なんという鵞鳥だい。
みつめる土地の底から、
馬鹿づらをして、
手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる。
土の中から分身がにょきにょき出てくるところ、その姿が滑稽な鵞鳥に譬えられているところなど、ドストエフスキーの夢の描写と酷似している。この手や足やくびが、やがて「竹、竹、竹……」と繰り返し歌われる身体の無限増殖のイメージへと発展し、さらに晩年には「猫、猫、猫……」と、他者の大群のイメージにつながっていく。
さて、現代において〈分身〉のテーマは必然的に〈群衆〉のテーマに結びついている、と先に書いた。、十九世紀において分身は主として「個体」に結び付いていたのだが、二十世紀には〈分身〉は〈群衆〉となって登場することになる。その〈群衆〉性をいちはやく見抜いていたのが十九世紀の数少ない詩人たちだった。
ボードレールの詩「七人の老人」（『悪の華』所収「パリ情景」詩篇の一つ）を見ておこう。
蟻のような雑踏の都会、夢また夢にあふれる都会、
亡霊が真昼間から通行人の袖を引く町！
不思議がどこにでも行き渡っている、いのちの液が
逞しい巨人のこまごまとした血管を流れるように。
（安藤元雄訳）
と、あたかも一個の生命体であるかのようなパリの肖像が描かれたあと、突然、一人の老人が登場し、その醜い風貌と無気味な動作が描かれる。そして、
そのあとから同じ姿が現れた。ひげ、目、背中、杖、ぼろ服、
どれをとっても見分けのつかない、同じ地獄から来た、
百歳の双生児同士だ、その変てこな妖怪どもが
どこへとも知れずそっくり同じ足どりで歩いて行った。
どんな恥ずべき陰謀に私はいったいさらされたのか、
どんな意地の悪い偶然が私をこうまで侮辱したのか？
なにしろ私は七人まで数えたのだ、刻一刻と、
その同じ不吉な老人の数がふえて行くのを！
という具合に、次々と複数化していく老人のイメージが詩人を恐怖の底に突き落とすのだが、ここで注意すべき点は、分身の数が「七」に限られていることだ。何故に「七」なのかという議論は、カバラやら占星術やらいろいろとややこしい話になるので省略するとして、とにかく数が限定されていることに注目しておこう。つまり、ボードレールの場合、分身の増殖は無限ではなく有限であるということ。先に述べた、主人公破滅の原則を打ち破る可能性は、どうやらこのあたりにありそうだ。いわば「多」としての無秩序に「数」の秩序を与えること。ここにボードレール詩学の重要な理念が潜んでいることは過去に何度か論じたので、ここでは繰り返さないが、要するに、自己であれ他者であれ、それ自体としてはとりとめもなくひたすら無数にある存在のありかたに、一定の理念による構造化を図ること。端的にいってしまえば分身の数を「七」までに限定すること。しかし、これを逆にいえば、この数（＝秩序）を越えるようなことがあった時、詩人はもうどうしようもなく脅えるしかないことになる。数への脅えとは、だから、存在そのものの飽和点への脅えということになる。またしても唐突だが、「悲しい記憶の数ばかり／飽和の量より増えたなら／忘れるよりほかないじゃありませんか」（中島みゆき「傾斜」）というわけだ。
＊
これまでのところでは、実は意図的に二つの概念をひとまとめにして用いてきた。そもそも「分身」という語はドイツ語の「ドッペルゲンガー」の訳語、フランス語では「ドゥブル」つまり英語の「ダブル」。あるいは「副身」という訳語のほうが（こなれない用語ではあるが）誤解が生じにくいかもしれない。先に「分身の一個性」の伝統と書いたが、それもそのはずで、元来「分身」とは「もう一人の自分」ということだ。これに対して、今みてきたディックやドストエフスキーの悪夢の場面やボードレールの「七人の老人」などでは、自己であれ他者であれ、それが複数に分裂あるいは増殖するわけだから、ドッペルゲンガー現象とはやや異なった位相でとらえられるべきかもしれない。つまり、ドッペルゲンガーと分身増殖は厳密にいえば――厳密にいわなくてもそうかもしれないが――相異なるものだということ。ただ、異なるとはいっても決して無関係ではない。特に現代では、この両者は密接に結びあっていて、切り離して考えることはできない。ドッペルゲンガーが無限に複数化したり、分身増殖が制御できなくなったりすることもあるわけだ。ここから単一で画一的な他者の像が生まれ、逆に、複雑で分裂的な自己の像も生まれることになる。言い換えれば、個人という「一」なるものが群衆化し、群衆という「多」なるものが個体化または同一化する。前者の実例がゴリャードキンの悪夢であり、後者の実例がシルヴィアの場合である、と言えるだろう。
ここでもう一つの例を挙げてみよう。二十世紀初頭に書かれたリルケの「マルテの手記」。リルケはチェコ生まれのドイツ人で、「マルテの手記」はパリを舞台に最初ローマで書かれたもの。しかも主人公のマルテはデンマーク人という設定になっているので、まさに汎ヨーロッパ的、国際的な背景をもって書かれた作品といえる。国際的ということは言い換えれば無国籍的ということでもあって、リルケの「異邦人性」が如実にあらわれた作品ともいえる。ボードレール以後、詩人が社会における「異邦人」として漂流漂泊を余儀なくされるようになったいきさつは、今日ではよく知られている。そしてその宿命がもしかすると詩人・芸術家だけにとどまらずに、現代人全般についてもあてはまるものであるかもしれないことも。
「マルテの手記」には次のような記述がある。
たとえば僕はきょうまで、だれもがいくつもの顔を持ち合わせていることに気がつかなかった。何億という人間が生きているが、顔はそれよりもたくさんにある。だれもがいくつもの顔を持っているからである。何年でも同じ顔をつけている人がいるが、むろんそういう顔は傷み、よごれ、皺のところから破れ始め、旅行にはめた手袋のようにだぶだぶになる。（中略）これに反して、気味のわるいほどつぎつぎと顔を替え、傷める人々もある。かれらは初めは顔を無尽蔵に持ち合わせているように考えるのだが、四十歳になるかならないかに、現在つけている顔でおしまいというようなことになる。むろんこれも悲劇である。（望月市恵訳）
「マルテの手記」には、この箇所以外に、自分自身と鏡に映った分身との間で主客が逆転してしまう無気味なエピソードなどもあって、自己意識の深淵を垣間見させるポエジーに溢れているのだが、ここではひとまず、この一節についてのみ言及しておこう。ここで「顔」というのを「人格」と読み替えてみれば、やや概念的にはなるが明確な意味が読み取れる。現代人の人格の多様さと均一さを、ともに悲劇として認識している文章ということだ。さきほどの文脈に引き付けていうなら、分身増殖の乱用とドッペルゲンガーの氾濫がともに、絶え間なく人格を傷付け続けている現状を、実にさりげなく言い当てているわけだ。しかし、これに続くエピソードは、さりげなくどころではない、真に無気味な恐怖を表している。
街はがらんとして、静かすぎて退屈していたので、僕の足から足音をうばい、木靴をはいているようにそれをあちこちへ反響させた。女はその音で驚いて、両手から顔を上げた。あまりに急激に上げたので、顔面が二つの手のなかに残った。僕は顔面のうつろな裏側が手のなかに残っているのを見ることができた。手からもぎ離された顔を見なくて、手に残った顔面だけを見ているのは、恐ろしい努力を要した。顔面の裏を見るのも恐ろしかったが、顔面がなくなったのっぺらぼうな顔を見るのは、もっと恐ろしかった。
まるでラフカディオ・ハーンの怪談「むじな」のような一節だが、ここでは「のっぺらぼう」を人格の隠喩として考えておきたい。あるちょっとしたショックで人は顔つまり人格をなくすこともある、無個性無人格の人を見るのは大変な恐怖だ、ということだ。どんなに恐ろしい顔でも無表情で非人間的な顔ほどに恐ろしくはない、ということでもある。この「のっぺらぼう」のイメージこそ、現代人にとっての分身の恐怖が――無限に増殖していくゴリャードキンの恐怖が――たどりついた究極のイメージのような気がしてならない。
最後に、このような状態にまで追い込まれた現代人がいかにして自己を保って生きていくことができるのか、という深刻な問題が残されているわけだが、スーザン・ソンタグの名言を引用して、今後の課題としておきたい。
この世界の問題を真に解決する方法は二つしかない――抹殺か、複製かだ。
（「ダミー」柴田元行／菅原克也訳）
自らコピーを作り出すこと、そうでなかったら自殺するしかない、などと乱暴なことを言っているようだが、本当のところはどうだろう。今のところだれもが自分の複製を生産できるような技術は不可能だが、もし近い将来にそれが可能になるとしたら（ある意味ではすでに可能なのかもしれないが）、人は複製に自分の人生を預ける気になるだろうか。それとも、自分がたくさんの分身＝群衆のなかのひとりにすぎないことに気付きつつも、それでもわずかな手掛かりから、ごくささやかな特徴を頼りに、あくまでアイデンティティ確立に拘り続けるのだろうか。二十一世紀の今日においてなお、答えは「未知」としかいえないだろう。群衆と分身が現在なお重要な文学課題であり続けている所以である。
以上、十九世紀から二十世紀までの群衆／分身作品を概観してきたのだが、最後に、二十一世紀を代表する詩作品からごく短い一節だけを紹介して本稿を閉じることにする。谷川俊太郎詩集『私』（二〇〇七年）から「私は私」の冒頭部分である。
私は自分が誰か知っています
いま私はここにいますが
すぐにいなくなるかもしれません
いなくなっても私は私ですが
ほんとは私は私でなくてもいいのです
私は少々草です
多分多少は魚かもしれず
名前は分かりませんが
鈍く輝く鉱石でもあります
そしてもちろん私はほとんどあなたです
この潔いまでの〈脱–自〉意識のうちにこそ、群衆／分身にまみれた現代都市生活者の活路が見出されるのではないか、と私は考えている。「私は私」という同化の横糸と「私はほとんどあなた」という異化の縦糸が自在に織りなすモザイク様の間主体存在の可能性である。
［付記］本稿は、かなり以前に発表した二つのエッセイ、「群衆論」（『河南文學』創刊号、大阪藝術大学文藝学科研究室、一九九一年三月）および「分身論」（『河南文學』第二号、同研究室、一九九二年五月）を全面的に改稿したものである。なお、「群衆」と「群集」の表記については引用元テキストに拠るもので、地の文では適宜使い分けをしているが、意味の上での相違はない。