連載（７）谷川俊太郎全《詩集》を読む
（「びーぐる」第４９号）
山田兼士
（１９）『コカコーラ・レッスン』
（思潮社、1980）
詩的実験はより構造的かつ多様に展開する。ここには企画書もあれば未定稿もあれば言葉遊びもあればアフォリズム的断章もある。ロールシャッハ・テスト図版による詩まである。先鋭的カオスから生じる詩もある。また、前作「タラマイカ偽書残闕」を再録していることからも想像できる通り、この時期における総合的実践室と見られる。だが、そうした多様な試行錯誤の中にあって、この時期を代表する最も重要な作品は、表題作「コカコーラ・レッスン」だろう。その冒頭を引用する。
その朝、少年は言葉を知った。もちろん生まれてからこのかた、彼は言葉を人なみに話してきたし、いくつかの文字を書くこともできた。その年ごろの少年としては、語彙はむしろ多いほうだったし、実際、彼はそれらをなかなか巧みに使っておどしたり、だましたり、あまえたり、ときには本当のことを言ったりもしていたのだが、それはそれだけのことだった。いまとなっては、ただ使うだけの言葉などというものは、とるに足らぬもののようにも思えるのである。
詩人自身の思春期の反映とおぼしき少年は、有用な意味だけをもつ言葉に対して、それだけではないある重要な価値を発見する。彼は突堤の先端で足をぶらぶらさせているさなかに、ふと「〈海〉という言葉と〈ぼく〉という言葉」の照応に気づき、一種の宇宙的交感を経験する。二つの言葉は大きさを自在に変えながら、実存的恐怖の認識を促すに至る。
急に彼はおそろしくなった。頭の中をからっぽにしたかった。〈海〉も〈ぼく〉も消してしまいたくなった。言葉がひとつでも思い浮かぶと、頭が爆発するんじゃないかと思った。言葉という言葉が大きさも質感もよく分らないものになってきて、たったひとつでも言葉が頭を占領したら、それが世界中の他のありとあらゆる言葉にむすびつき、とどのつまりは自分が世界に呑みこまれて死んでしまうのではないかと感じたのだ。（中略）一個の未知の宇宙生物にもたとえられる言葉の総体が、一冊の辞書の幻影にまで収斂したとき、彼の戦いは終っていた。海はふたたび海という名のものに戻っておだやかにうねり、少年は手の中のコカコーラのカンの栓をぬき、泡立つ暗色の液体を一息に飲み干して、咳きこんだ。｢コカコーラのカンさ」と彼は思った。一瞬前にはそれは、化物だったのだ。
言葉が言葉としての存在をあらわにした瞬間、それは魔的怪異をもつ「化物」となって少年に迫ってくるのだが、その超常現象とは言葉の〈詩〉性に関わる何かにほかならなかった。その本質を内在化した少年は元の現実に戻っていくわけだが、もちろん何事もなかったわけではない。少年はこのとき〈詩人〉になったのだ。
その日から数十年をへて、年老いた彼が死の床に横たわっているとき、なんの脈絡もなくこの出来事を思い出すとしても、それは他のあらゆる思い出と同じく、すでにとらえることの難しい一陣の風のようなものに変質してしまっているだろうが、それ故にそれはまた、失われつつある五感とはまたべつの感覚を刺戟して、彼をおびやかすにちがいない。
詩の脅威と魔力を具体化したイメージとして、この「風のようなもの」以上にリアルな表象を私は知らない。
（２０）『ことばあそびうた また』
（福音館書店1981）
言語実験は続く。もっぱら歌を重視した前作『ことばあそびうた』にストーリー性を加えることで重層性を帯びた構造が本作の特徴。遊びの精神は詩精神と同一であり、産みの苦しみは産みの楽しみでもある。瀬川康男の絵も楽しく、耳と目との両方で遊べる一冊だ。それにしても、この先にあるものとは？ 二冊めとなるとさらなる方向性が気になるところだ。ただの「ことばあそび」（のみ）にとどまらず、繊細な意味性にも満ちた短詩を味わいたい。「わたし」全文を引用する。
わたしはわたす
あなたをわたす
あなたへわたす
わたしもり
あなたはあなた
あだしのあたり
わたしはわたし
わたしもり
ずっと後の詩集『あたしとあなた』（2015）を予告するかのように繊細で質朴な抒情詩だ。三行目の「あなた」は「彼方」、六行目の「あだしの」は「化野」だろう。すると、「わたし」は「あなた」にとって死後の世界への艀の渡し守（ギリシア神話のカロン）という含意をもつことになり、生死のあわいを主題にした深遠な歌ということになる。
素朴な言葉で生死の境界を描いた歌といえば、古くから伝わる童謡や民謡などが思い浮かぶ。平易な言葉を用いながら謎めいた暗示を含む、例えば「マザー・グース」などだ。そういえば、谷川俊太郎が『マザー・グース』翻訳を刊行したのは一九八四～八五年だ。
死者との交流というテーマなら、「はかまいり」という作品を挙げることもできる。
かささして
かかかささして
あさかささして
あかさかさして
かんざしさして
かかはかまいり
さかさかし
あさはかまいり （全文）
漢字かな交じりで書き直すなら、妻または母（かか）が傘をさして朝、赤坂を指して、簪挿して、賢明に墓参りした、という意だろうか。赤坂というのが墓地のある場所であるらしいのだが、朝から傘をさして墓参りに行く女の姿が、なにやら異界めいた雰囲気で描かれているように見える。現在の華やかな街区である赤坂のイメージに重ねるなら、この不穏な雰囲気はいっそう都市伝説的な不気味さを帯びてくるのではないだろうか。
もう一つ引用しておきたい。「ほっとけ」。
いけはほっとけ
こけははっとけ
たけはきっとけ
おけはおいとけ
つけはほっとけ
ふけはとっとけ
はけはほしとけ
かけはまけとけ
ごみはほっとけ
みけはかっとけ
さけはさけとけ
やけはやめとけ （全文）
「～は～とけ」の韻を繰り返す「ことばあそび」だが、この「ほっとけ」が私には「仏」と聞こえてならないのだが。やはり異界との交感の歌としてである。
（２１）『わらべうた』（集英社1981）
数年にわたる言語実験の成果はこの詩集かもしれない。一見ナンセンスな「ことばあそび」が、「うた」を獲得することで、現代詩に失われつつあった音楽を呼び戻そうとする試みだ。この後に続く子供の詩、歌詞、ひらがな詩などへの貴重な一歩、と今なら位置づけられる。当時、そうした展望をもって本作を受け入れた人は（ほとんど）皆無だったと思うが。まず「わるくちうた」から。
とうさんだなんて いばるなよ
ふろにはいれば はだかじゃないか
ちんちんぶらぶら してるじゃないか
ひゃくねんたったら なにしてる？
かあさんだなんて いばるなよ
こわいゆめみて ないたじゃないか
こっそりうらない たのむじゃないか
ひゃくねんまえは どこにいた？（全文）
子供の視点から人生や社会や家庭を描いた詩を、谷川俊太郎はごく初期から書いてきたが、それらは決してかわいらしく純真な（つまり大人が期待するような）子供のイメージに添ったものではなかった。時には残酷で酷薄で意地悪な子供の本音をさらけ出さずにはいなかった。『わらべうた』が出た一九八〇年代頃から、この傾向はますます強くなり、時にはＰＴＡなどから苦情が出るほどだったという。ある意味では露悪的とさえいえるほどの子供の本音は、時に父や母への悪罵というかたちで流出する。「わるくちうた」はその典型的な作品といえるだろう。そんな中にあっても、各々の弱点を素朴に指摘した上で、百年後や百年前に思いをはせるのは、やはり詩人気質の業と見るべきだろうか。
子供の素朴で繊細な感性ということなら、例えば「うんとこしょ」などは、まるでまど・みちおの作品のようだ。
うんとこしょ どっこいしょ
ぞうがありんこ
もちあげる
うんとこしょ どっこいしょ
みずがあめんぼ
もちあげる
うんとこしょ どっこいしょ
くうきがふうせん
もちあげる
うんとこしょ どっこいしょ
うたが こころを
もちあげる（全文）
ぞう、みず、くうき、ときた「もちあげる」もののパラダイムに「うた」を加えた時、この作品は〈児童詩〉から〈純粋詩〉へと飛翔した。なぜなら、「うたが こころを／もちあげる」とは、いかにも無心の歌を装いながら、その抽象性と象徴性において、たしかに芸術の域に達しているからだ。
最後に「けんかならこい」を挙げておこう。
けんかならこい はだかでこい
はだかでくるのが こわいなら
てんぷらなべを かぶってこい
ちんぽこじゃまなら にぎってこい
けんかならこい ひとりでこい
ひとりでくるのが こわいなら
よめさんさんにん つれてこい
のどがかわけば さけのんでこい
けんかならこい はしってこい
はしってくるのが こわいなら
おんぼろろけっと のってこい
きょうがだめなら おとといこい（「全文」）
（２２）『わらべうた続』（集英社1982）
『わらべうた』続編には「ゆっくりゆきちゃん」など、後に二次三次使用される名作が多い。そのままふしを付けて歌えそうなものもあれば、実際に作曲できそうなものもある。また、後に絵本や詩画集になった、親しみやすいものもある。一方で、「であるとあるで」のような言語破壊実験もあり、辛辣なブラックユーモアなどもあって油断できない。
ゆっくりゆきちゃん ゆっくりおきて
ゆっくりがおを ゆっくりあらい
ゆっくりぱんを ゆっくりたべて
ゆっくりぐつを ゆっくりはいた
ゆっくりみちを ゆっくりあるき
ゆっくりけしきを ゆっくりながめ
ゆっくりがっこうの もんまできたら
もうがっこうは おわってた
ゆっくりゆうやけ ゆっくりくれる
ゆっくりゆきちゃん ゆっくりあわて
ゆっくりうちへ かえってみたら
むすめがさんにん うまれてた
まず「ゆっくりゆきちゃん」という頭韻をふんだネーミングがユーモラスで、その子供の「ゆっくり」ぶりが執拗に描かれることで読者（聴衆）の笑いを誘う。まさに朗読向けの作品なのだ。学校に着いてみたら学校が終わってた、というところで一度笑いを取って、最後に、娘が三人生まれてたというところでは（前作「けんかならこい」の「よめさんさんにん」と同様に）、、不自然で不条理な諧謔が不可解な苦笑を誘っている。この三人の「むすめ」は誰の娘だろう？ 謎めいていてなかなか手強い作品である。
「すっとびとびすけ」は、民話的モチーフを特有のユーモアに包んで現代人に差し出した、現代の叙事詩と呼ぶべき怪作である。
すっとびとびすけ すっとんだ
ふんどしわすれて すっとんとん
あさめしくわずに すっとんとん
すっとびとびすけ すっとんだ
とぐちでころんで すっとんとん
じぞうにぶつかり すっとんとん
すっとびとびすけ すっとんだ
ふじさんとびこえ すっとんとん
びわこをまたいで すっとんとん
すっとんとびすけ まにあった
やっとこすっとこ まにあった
じぶんのそうしき まにあった（全文）
「すっとびとびすけ」と「すっとんとん」のリフレインが楽しい歌だが、富士山を越え琵琶湖を跨ぐほどの巨体は、神話世界の（例えば「八郎潟」の「八郎太郎」のような）存在以外には考えられない。その存在が自分の葬式に間に合った、というエンディングの意味も深く広くまた多様だ。私などは、これを〈神なき時代〉または〈神々の黄昏以後の小人たちの時代〉への自己追悼歌と呼んでみたくなる。〈死〉は本書の隠れたライトモチーフだ。
最後に、詩人が度々とりあげる「あした」の主題の自己模倣を全文挙げておこう。
あしたのしたは どんなした
ああしたこうした にまいじた
ゆめをみるまに だまされる
あしたのあしは どんなあし
ぬきあしさしあし しのびあし
かおもみぬまに にげられる
（２３）『みみをすます』（福音館書店1982）
「ことばあそびうた」から「わらべうた」へと続いた言語実験は、次の『みみをすます』において初めて「現代詩」の領域に届くことになった。長編詩六編から成るこの詩集の帯文には、
（……）和語だけでどれだけ深く広い世界を謳いあげることができるか、著者があしかけ十年にわたって問い続けたことに対する、自らの完璧な回答です。
とあって、谷川俊太郎のいつになく熱い意気込みを伝えている。ここで「あしかけ十年」というのが『ことばあそびうた』以来の十年であることを考えれば、この詩集がことばの〈実験〉を経た後の一つの達成であったことはすぐに想像できるだろう。全一七九行から成る表題作の冒頭を引用する。
みみをすます／きのうの／あまだれに／みみをすます／／みみをすます／いつから／つづいてきたともしれぬ／ひとびとの／あしおとに／みみをすます
初期作品以来の主要モチーフである「みみをすます」をキイワードに、大から小まで様々な物音が様々に描写され、さらに、それらの物音に囲まれた〈沈黙〉までが描かれている。これはきわめて当然の結果というべきだろう。というのも、「みみをすます」とは沈黙を発見する行為にほかならないからだ。
やがて／すずめのさえずり／かわらぬあさの／しずけさに／みみをすます
もちろん、「和語だけで」書かれたこの作品に「沈黙」という語は一度も用いられていない。が、様々な物音に囲まれたこの「しずけさ」は、たとえば
生きるために、詩人は言葉をもって沈黙と戦わなければならない。
（（「沈黙のまわり」『愛のパンセ』1957）
と語られるような、詩人の使命にほかならなかった。この姿勢は、詩「みみをすます」の末尾で次のように敷衍されている。
みみをすます／きょうへとながれこむ／あしたの／まだきこえない／おがわのせせらぎに／みみをすます
やさしいことばづかいの中に、時間の空間化という難業を表明してこの作品は終っている。「きょう」と「あす」の時間の流れを｢おがわのせせらぎ｣というさりげないイメージで合流させ、ささやくような物音で「沈黙のまわり」を表現している、といってもいい。だが、どのようにパラフレーズしてみても、この六行をよりわかりやすく説明したことにはならない。それでもなお、こうした敷衍をしてみたくなるのは、このように簡潔きわまりない表現で歌われる〈こどもの詩〉がそのまま〈おとなの詩〉として読まれ得る―言い換えれば（こどもの）詩が（おとなの）詩学に直結している―ことを示す必要があるからだ。
詩における〈沈黙〉を表現し切った詩「みみをすます」と並んで、この詩集には、人の誕生から死までを象徴的に描き切った「ぼく」や、対幻想における自意識を追究した「あなた」や、他者性の不条理と不気味を抉り出した「そのおとこ」など、人間の深遠さがさりげなく素朴なことばで綴られている。この詩集は、初期作品以来三十年にわたる谷川詩学からの「完璧な回答」なのである。