連載（６）谷川俊太郎全《詩集》を読む

（「びーぐる」４８号）

山田兼士

（１７）『タラマイカ偽書残闕』

（書肆山田、1978）

　数多ある谷川詩集の中でも最も過激な詩的実験の書。「タラマイカ語」からスウェーデン語、ウルドゥ語、英語を経て日本語に翻訳された、とする偽翻訳詩は、独自の造語と相俟って、神話的叙事詩の幻視を促し原初の詩の発生を垣間見させるテクストを仮構する。

『「〈�Tこれから私の語る言葉が、正確にどこから来たものか私は知らない�Uと、その老船長は言った。（……）

　巻頭から四種類の引用符（カッコ開く）に戸惑うが、要は、起源の定かでない神話的伝承が何通りもの重訳の果てにこうして現代日本語で読まれることの意義を、真摯さと冗談とを交えて綴った〈序詩〉と考えていいだろう。いささか大仰な言い方になるが、〈詩の起源〉に思いを馳せる詩人の想像力が生み出した個人的神話の表象である。全�ｩ章から成る神話的叙述は次のように始まっている。　　　

　　�氈iそことここ）

わたし(＊)の
眼が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
開く。

わたしの
耳が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここで
語る。

わたしの
鼻が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
黙す。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ。

　一行目の「わたし」にはいきなり注釈（後注）がついていて、通常の一人称ではなく、このテキストに関わったすべての人（作者、翻訳者、読者）を含む「重層的一人称」であることが、細かい活字でくどくどと説かれている。有り体にいって、詩を書く（あるいは歌う）主体の非人称性、ということになるのだろうが、一九七八年という「ポスト・モダン以前」の時期にすでに作者の死（あるいは不在）を明言した詩人は（少なくとも日本では）ほかにいなかった。詩人としての出発当初から掲げていた「ノンセルフ」の詩想が最も直截な裸形を現した詩集である。

（１８）『そのほかに』（集英社1979）

　集英社シリーズ第一弾。これ以後、谷川作品は、思潮社系（実験的前衛詩）、集英社系（一般向け大衆詩）、理論社系（こどもの詩）と、おもに三つの系列にまとめられるようになる。

　様々な依頼に応じて制作された多様なスタイルの５７篇は、「あとがき」でパッチ・ワークに擬せられているように、融通無碍で変幻自在だ。寡黙な詩と雄弁な詩、写真詩、機会詩、歌詞と、多くの抽斗を一遍に開けたような賑やかさで、中には定型詩の試みまである。試行錯誤というよりもむしろ自由自儘な作品群と見るべきだろう。表題作を引用する。

ひざの上ですすりあげる私の幼い娘

――そのほかに何を私は待っているのか

遠くでマドリガルが唱い出される

閉じたままの本

胡桃の木蔭

言葉では十分でない

言葉は呼びつづけ

決して満足しないから

沈黙では十分でない

沈黙はつづき

不死だから

そのほかに何を私は待っているのか

ひざの上で

少しずつ泣きやんでくる幼い娘と――

　この頃から谷川さんの詩集には「初出一覧」が付されるようになった。詩集『そのほかに』収録の作品は概ね一九七〇年代に様々な雑誌、新聞、タウン誌などに書かれたもので、依頼主の注文に応える律儀さと、なお自在に想像力を羽撃かせるプロ詩人の自恃が、同時にうかがえる作品群だ。そんな中にあって詩「そのほかに」は初出が「未詳」となっていて、発表媒体が気になるところだ。

　比較的初期の頃からノンセルフを標榜してきたこの詩人にしては、この詩に登場する「私の幼い娘」は妙にリアルで、私生活を垣間見させている、といえばいいだろうか。そういえば、本詩集にはほかにも、「いさかいのあとで　妻に」や「ポルノ・バッハ」といった、いわば私生活暴露詩篇が含まれていて、この詩人にはめずらしく幾分無防備な作品が目立っている。マドリガルと胡桃の木陰、言葉と沈黙といった舞台装置の上で「幼い娘」は「すすりあげ」やがて「泣きやんでくる」。夫婦喧嘩のさなかの幼子のいじらしさが切実なピアニッシモで響いてくるといった趣きではないだろうか。調べてみなければわからないことだが、この詩は、例えば「櫂」のような自儘な同人誌にそっと発表されたのが初出ではないかと想像される。

　これと対象的に、私生活とはまったく無縁のストイックな詩「秋」を挙げておこう。後の『minimal』の先駆けともいえそうな作品だ。

草の上に

影のびて

立ちつくす

老いた道化の

衰えぬ

ふくらはぎ

死を笑う

義歯の口

子等遠く

凧をあげ

幻か

王の版図も