谷川俊太郎〈こどもの詩〉その後

誕生から末期まで

（「現代詩手帖」２０１４年５月号）

山田兼士

　谷川俊太郎の〈こどもの詩〉について、筆者は前著『谷川俊太郎の詩学』（思潮社、二〇一〇年）の中で、『みみをすます』（福音館、一九八二年）から『すき』（理論社、二〇〇六年）まで九冊ほどの詩集を取り上げて論じた。その要点は、谷川さんはある時期から、思弁的哲学的命題を〈こどもの詩〉の中で扱うようになった、ということだ。おとなのことばで語ると観念的抽象的になりがちな〈思想〉や〈真実〉も、こどものことばでなら（こども視線でなら）ごく自然に直截に表現することができる。その典型例を挙げておこう。

あたり前なことは何度でも言っていい

ぼくはただ鯨は大きくてすばらしいと言う

鯨の歌うのを聞いたことがあるかい

何故か人間であることが恥ずかしくなる　

そして人間についてはどう言えばいいのか

朝の道を子どもたちが駈けてゆく

ぼくはただ黙っている

ほとんどひとつの傷のように

その姿を心に刻みつけるために　　

（『どきん』より「ぼくは言う」後半部）

　「あたり前なことは何度でも言っていい」と、〈真実〉を繰り返し口にしつつ、ほんとうに一番だいじなことは〈沈黙〉で示すしかない、というのは谷川さんの一貫した主張だ。ここには、「あたり前な」〈真実〉と〈沈黙〉を重視する詩人の姿勢が明確に刻まれている。

　次に、『すき』の刊行後に編まれた、写真詩集『子どもたちの遺言』（佼成出版社、二〇〇九年）から、巻頭作「生まれたよ　ぼく」を挙げてみる。

生まれたよ　ぼく

やっとここにやってきた

まだ眼は開(あ)いてないけど

まだ耳も聞こえてないけど

ぼくは知ってる

ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください

ぼくが笑うのを　ぼくが泣くのを

ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが

ここから出て行くときのために

いまからぼくは遺言する

山はいつまでも高くそびえていてほしい

海はいつまでも深くたたえていてほしい

空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを

忘れずにいてほしい　　　　

（全行、原文総ルビ）

　田淵章三による新生児（産湯に浸かる前）の写真の生々しさと対照的に、ストイックで冷静な赤ちゃんの語りで詩集は始まっている。もちろん、生まれたての赤ちゃんはこんなことばを使わない、というかことばをもっていない。だが、もし仮に（前世の記憶とか胎教とかで）ことばをもって生まれてきたとしたら、こんな風に考え話しても不思議ではない、そういう気にさせるのが谷川俊太郎の詩の技倆だ。その要因はまず、冒頭の、あまりといえばあまりに潔いストレートな一行にある。次に、誕生までの長い道のり――精子と卵子が結びつき胎内で成長し十月十日を経てこの世界に到着するまでの遙かな時間的距離――を要約する第二行。続く四行は、世界がアプリオリに（見えなくても聞こえなくても）「すばらしいところ」であることの確認だ。ここまでが第一連で、ページが変わって第二連になると、新生児は早くも人生の困難を予感し、他者への宣言を行っている。続く第三連は生の〈始まり＝誕生〉に対する〈終わり＝末期(まつご)〉への言及だ。いつか死ぬ日のために新生児が「遺言する」というのがこの詩の（また詩集全体の）ライトモチーフである。山と海と空（つまり全自然界）の安寧と清澄が、その遺言の要綱だろう。そして最終連の二行は、誕生の瞬間の感激をいつまでも覚えているように、という人々への願い＝祈りだ。

　こうして全体を味読していくと、きわめて単純で平易に書かれているように見えるこの作品が、実に周到なプログラムによって構築されていることがよくわかる。誕生宣言、世界の全肯定、困難の克服、末期(まつご)の眼、他者への願望、というのがその構造(プロット)だ。つまり、新生児の語りによる全人生の要約、といっていい。誕生から死（後）までを〈こどもの詩学〉によって凝縮した思想詩、というのはいいすぎだろうか。

　二〇一三年十一月、「谷川俊太郎のポエメール」と称して、毎月四度、詩を配信するというウェブマガジンが創刊された。その第十回（二〇一四年一月一〇日）に配信された詩「赤んぼの気持ち」を紹介したい（ただし、初出は毎日新聞、二〇一二年一月四日）。紙幅の都合で追い込みで引用する。

お日さまできたて／空洗いたて
／お餅つきたて
／ワタシ生まれたて
／今朝は赤んぼの気持ち
／コトバなんかまだ知らない
／でもそよかぜ肌に触れてくる
／猫の鳴きごえ聞こえてくる
／さわやかな香りもする／あ　ミカン
／でもミカンて名前に知らんぷり／こんな形
／こんな色
／こんな重さで
／こんな手触り
／なんて不思議
／なんてカワイイ美しい
／これはイノチ
／ワタシもイノチ／
何もかも初めてのようで／
何もかも大昔に始まって／
いつ終わるのか誰も知らない
／これから何が起きるか楽しみで
／これから何が起きても恐くない／今朝は赤んぼの気持ち
／ここどこ今いつワタシ誰？
／そんなこと分かんない
／でもここは今ある
／今はここにある
／意味分かんなくともワタシはいる
／いつだって今が始まり
／どこだってここが始まり
／誰でもないワタシが始める
／世界はまっさらいい匂い
／歩き出そうか走り出そうか
／それともじっくり考え出そうか　　　　　（全行）

　前掲の「生まれたよ　ぼく」と対を成すように、女の子の一人称で、生まれたての赤ちゃん（の気持ちになった幼児？）の独白が綴られている。前作よりかなり雄弁なのは、女の子ということもあるだろうが、それ以上に、前作が写真とのコラボレーションだった（ことばは必然的に寡黙になる）のに対して、本作がことばだけで綴られているからだろう。

　この作品でも谷川さんは、ことば以前の世界を仮構し、零度の感覚で世界に対している。ふと「ミカン」（ひらかなより音声的なカタカナであることに注意）というコトバを使ってしまうが、「知らんぷり」してスルーする。次の「イノチ」もまたことばでありながらことば以前の「コトバ」として扱われている。ここで「ワタシ」は、生身で世界に対することで、深く世界と生命の不思議に触れている。「赤んぼ」は存在論的問いさえ発しながら生の全肯定という〈思想〉を表明するのだ。そして最後は〈行動〉と〈思考〉への準備だ。「生まれたよ　ぼく」と比較すると、〈始まり〉だけで〈終わり〉が示されていない分、いささか軽い印象があるかもしれないが、かえって、赤ちゃん視点という（ある意味で無理な）設定がより自然に迫ってくるのではないだろうか。「赤んぼの気持ち」というさりげないが決定的な仕掛けが、ここでは、より自然な雰囲気を創出している。〈ほんとうのこと〉をストレートに表明する装置としての〈こどもの詩学〉が、さらに自然さを増して説得力に磨きをかけているのである。「赤んぼの気持ち」になる「ワタシ」は、幼児にかぎらず、何歳であっても（例えば大人でも老人でも）いっこうにかまわないのだ。

　一九八〇年代以来進化を続けてきた谷川俊太郎の〈こどもの詩学〉は、最近になって〈赤ちゃん視線〉まで獲得することで、かぎりなく純白に近いイノセンスを仮構できるようになった。その対極にあって同時にかぎりなく接近してもいる視線は、おそらく〈末期(まつご)の眼〉であるだろう。長篇詩「臨死船」（『トロムソコラージュ』新潮社、二〇〇九年、所収）で示された臨死体験者の視線だ。誕生も末期もかぎりなく〈死〉に近いという意味において、生の両極は近接し合ってもいる。今後も谷川俊太郎の詩学は、これら両極をめぐってさらに進化を続けていくだろう。谷川さんの最新詩集（岩波書店、二〇一三年）のタイトルが〈ミライノコドモ〉であることにも注意を促しておきたい。ただ、『ミライノコドモ』については、同時期に出た『こころ』（朝日新聞出版）と併せて最近書いたので（「谷川俊太郎２０１３」『PO』一五一号、二〇一三年十一月）、ここではさらに新しい著作、ただし詩集ではなく絵本を、最後に紹介しておきたい。

　谷川さんの絵本についても、前著で「絵本の詩学」として論じたことがある。谷川さんが創作絵本に本格的に取り組み出したのは、やはり一九八〇年代になってからで、その出発点を私は『スーパーマンその他大勢』（一九八三年、グラフィック社）と考えている。その後、『クレーの絵本』（一九九五年、講談社）などの秀作絵本を世に送り出した谷川さんが、新境地として打ち出したのが「赤ちゃんから絵本」のシリーズだ（二〇〇三年〜、クレヨンハウス出版部）。極端に寡黙でほとんど沈黙そのものであるかのようなことばと絵について、谷川さん自身が、筆者との対話（前掲拙著の附録）の中で、「中年を赤ちゃんにしよう」との意図を明かしている。

　最近出た絵本『かないくん』（絵・松本大洋、東京糸井重里事務所）は、これら秀作絵本の系列に連なりながら、通常絵本では考えられにくい〈死〉を正面から取り上げた作品だ。同級生の死に出会い不条理を覚えた少年が、後半で、老いた絵本作家として登場し、視点はその孫娘に移っている。かないくんの〈死〉を主題にした作品をどう終えればいいのか悩む「おじいちゃん」は、「私」に対して「死(し)んだら終(お)わりまで描(か)ける」と言い遺して死んでいく。祖父の死を知った「私」はなぜか「終わった」のではなく「始まった」と思う。命がリレーされたのだ。この〈終わり〉と〈始まり〉の互換性もまた、〈末期の眼〉と〈赤ちゃん視線〉の近似性と同様に、生の両極を指呼する谷川詩の現在を明示している、といえるだろう。