心からこころへ
谷川俊太郎『62のソネット』と『こころ』の間
（「現代詩手帖」２０１４年９月号）
山田兼士
月一回五年間にわたる新聞連載をまとめた谷川俊太郎詩集『こころ』（朝日新聞出版、二〇一三年六月）は、刊行直後から広く話題となり多くの反響を呼んでいる。私自身も同時期に出た詩集『ミライノコドモ』（岩波書店、二〇一三年六月）と並べて取り上げ、谷川俊太郎の「現在」の一端を論じた。「連載中に東日本大震災という大きな事件に遭遇したという偶然も含めて、 詩集『こころ』はこの時代における詩人の魂の遍歴という副産物をも含む、重要な一冊になった。もちろん、そのドキュメント性は本詩集の価値のすべてではない。詩人の明晰な精神と深遠な魂がとらえた六十通りの心がかぎりなく明晰なイメージになって念写されたアルバムなのである。」（「谷川俊太郎２０１３」、「PO」二〇一三年冬号）
「六十通りの心」とは決して誇張ではなく、詩集『こころ』収録の六十篇はそれぞれに「こころ／心」のあり方についての詩人からの〈回答〉なのだ。答える主体は老人であったり少年であったり少女であったり女であったり男であったりするのだが、それらすべてが多面体としての詩人自身の自画像なのである。
これまで六十年以上にわたって六十冊以上の詩集を刊行してきた谷川俊太郎の、いわば「こころカタログ」と呼ぶべき作品群を前にして、私たち読者は、多様な「こころ／心」のあり方と動き方を、文字通りにそのまま受け取れば良いのかもしれない。じっさい、「批評」ではなく「感想」と称して六十篇をそのまま長大な散文にパラフレーズした書物も現われた。たしかに、そういう受け入れ方もあるだろう。だが、それだけで十分というわけにいかないことも疑いのない事実なのだ。
「歴史的というより地理的な詩人」とは谷川さんが自己認識のあり方としてしばしば用いることばだ。いま・ここにある自分が過去の自分と共時的に存在しているとの認識（いわゆる「年輪」説）もしばしば口にする。そうであればこそ、逆に、通時的＝時系列的な谷川俊太郎論、文学史的な谷川作品理解、といったものも、（現在のあるいは未来の）読者にとって必要なのではないか。『こころ』の場合でいうなら、いま・ここにある六十の「こころ／心」の現象＝表層に背景＝深層を返すこと――〈問い〉に対する〈答え〉の変遷の経緯を緻密にたどることによって「こころ／心」の生成過程を明らかにすること――が、より深い作品理解のために求められるべきではないだろうか。少なくとも批評の立場からはそのように考えるべきだろう。
詩集『こころ』には「こころ」も「心」も同じくらいの頻度で現れるが、どちらかというと漢字をひらかなに開いていくベクトルの方が強いように思われる。これは、和語のみで書かれた最初の本格的詩集である『みみをすます』（福音館書店、一九八二年）以来一貫したベクトルだ。二〇〇〇年に出たCD-Rom版『谷川俊太郎全詩集』（岩波書店）によれば、ひらかなの「こころ」は第一詩集から『みんなやわらかい』（一九九九年、大日本図書）まで計四十八詩篇に用いられている。ここで目につくのは、第二詩集『のソネット』にひらかな表記の「こころ」が一度も用いられていないこと、代わって漢字表記の「心」が二十四篇に登場することだ。とりわけ、各詩篇に題名のついた「�氈v章（「�」章と「�｡」章の各詩篇に題名はなく番号のみが与えられている）では、全二十四篇中十四篇に「心」が用いられ、いずれも重要主題として扱われている。「ソネット」という形式名をタイトルに用いているが、内容的に見るなら、本詩集は『心』と題されていたとしても不思議ではない。紙幅の都合で一篇だけを引用しておく。
20 心について
私は生きることに親しくなっていった
私は姿ばかりを信じ続けて
心について何ひとつ知らないのだったが
それがかえって私の孤独を明るくした
私はむしろ心に疲れていたのかもしれぬ
もろもろの姿の毅然としたひろがり
それらは心よりもきっぱりと
時を生き 所を占める
今 私に歌がない
私は星々と同じ生まれだ
私は心をもたぬものの子だ
だがその時突然私に心が還ってくる
私の姿が醜い故に？
いやむしろ世界の姿があまりに美しい故に
青年の心の痛みが強い切実さをもって迫ってくる作品だが、暗さ苦しさとは無縁である。「心」についての無知はかえって「私の孤独を明るく」するものだし、「心」より「姿」を重視する非情は後の「ノンセルフ」の思想を先取りし、にもかかわらず最後に「心が還ってくる」のは「世界の姿」の美しさ故だという。「心」には何一つかたちが与えられず、一切は〈問い〉のかたちで読者に投げかけられている。もちろん、その読者のうちのひとりは詩人自身だ。自らの〈問い〉に対して〈答え〉を求めようとする切実かつ磊落な求道者は、この後、六十年の歳月をかけて様々なかたちで〈回答〉を連ねていく。それら数多の〈回答〉の最新集成が『こころ』である。例えば前掲「心について」は詩「心よ」とみごとに〈問―答〉の対をなしている。
心は私の私有ではない
私が心の宇宙に生きているのだ （「心よ」部分）
第一詩集『二十億光年の孤独』が自侭に書き連ねられた少年期の感性の祝祭――本然的な抒情の炸裂――であったのに対し、『のソネット』では、こどもを卒業して大人の世界に足を踏み入れた青年のさまざまな感情ー―怖れ、不安、焦慮、疑念、期待、欲望など――が一見整然とした佇まいのなかに幾重にも交錯して噴出しているのが大きな特徴だ。まさに「心」の在り処在り方についての〈問い〉の連続なのである。中には「近代詩的」と呼び得るような古風さ、素朴さが見られるのも、青年期の出発にあって大人を目指す青年の性急な問いかけ故なのだ。この〈問い〉に対する〈答え〉がその後の長い詩人人生におけるライトモチーフの一つになった。最新詩集『こころ』はその〈回答〉の集大成として編まれたものだ。だから『こころ』をより深く豊かに受容しようと欲する読者は、「心」から「こころ」への変遷の経緯を丁寧に読み解かなければならない。
谷川俊太郎のテクストの深層には、測り知れぬほどに豊かな謎と富と価値が秘められている。表層テクストのみを対象に戯れている場合ではないのだ。本稿は、いずれ本格的に書かれるべき「谷川俊太郎《こころ》論」への「序」として執筆された。