連載（１０）谷川俊太郎全《詩集》を読む
（「びーぐる」５２号）
山田兼士
（３６）『女に』（マガジンハウス1991）
還暦間近の詩人による純愛詩三十六篇。すべて数行の短詩に佐野洋子の挿絵が付く書き下ろし詩集だ。「未生」から「後生」まで、互いの生のすべてを暗示し隠喩し寓意するかのように、詩と絵は密接に結びつき、具体的な生と生活の細部までも浮き上がらせようとしている。本欄で絵を紹介できないのは残念だが、詩と絵はまるで双子のように響き合っている。互いの幼年期について示唆的な場面をいくつか描いた後、二人はついに出会いを実現する。
始まりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびとしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた （「会う」）
出会いを一瞬の出来事とはせず「少しずつ」「会っていった」というのは、この詩人らしくない慎重さであり臆病さでもある。身体に触れる前に「魂に触れた」というのも、いかにも懇切で丁寧な態度だ。この気弱なまでの精神は、より即物的な「心臓」の運動に喩えられている。
それはちいさなポンプにすぎないのだが
未来へと絶え間なく時を刻み始めた
それはワルツでもボレロでもなかったが
一拍ごとに私の喜びへと近づいてくる
年老いてなお「未来へと」リズムを刻まざるを得ない「心臓」は、その疲労にも倦怠にもまして更なる「喜び」をもたらしてくれる。
より具体的に日常生活に密着した「ここ」というタイトルの短詩もある。
どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく
詩人と画家の放浪する魂は、他所に居所を探し求めるのではなく、今いる此処を何処かに変えてしまう。今・此処にある現実こそが異界であり、異界とは現実の別名にほかならない。なぜなら二人は魂の旅人であるからだ。
還暦を迎えた詩人は、〈死〉への旅立ちを意識しつつ、なお〈生〉ある未来への希望を次のような詩句に託している。
たった今死んでもいいと思うのにまだ未
来がある
あなたが問いつめ私が絶句する未来
原っぱでおむすびをぱくつく未来
大声で笑いあったことを思い出す未来
もう何も欲しいとは思わないのに
まだあなたが欲しい （「未来」）「
明るくはかなげでしかも幼い「未来」とは、本当は未来における（ノスタルジックな）過去ではないだろうか。未来完了形とも呼ぶべき視点から「まだあなたが欲しい」とは、いかにも自然で天然な詩人の本音ではないだろうか。この時から三十年後の現在、私たちの視野に映るのは、人間としての生き直し＝死と再生を図る、あくなき詩人の業ではないだろうか。
私ハ火ニナッタ
燃エナガラ私ハアナタヲミツメル
私ノ骨ハ白ク軽ク
アナタノ舌ノ上デ溶ケルダロウ
麻薬ノヨウニ （「死」）
死んだのは「私」なのか「アナタ」なのか。どちらでもありどちらでもない非人称存在だ。もはや霊的存在とでも言うしかない何かだ。
（３７）『詩を贈ろうとすることは』（集英社1991）
多様な依頼に応えた集英社シリーズ第四冊。五十歳代における生活の変化を反映しつつも、静寂と沈黙を希求する姿は不変だ。祝婚歌、追悼詩をはじめ機会詩も多いが、決して美辞麗句は用いない。時に辛辣さもあるが冷たくはない。そこに感じられるのは詩の温もりだ。
誰にもあげることはできないのだ
詩はネクタイとはちがって
私有するわけにはいかないから
書かれた瞬間から言葉は私のものでも
あなたのものでもなく万人のもの
どんなに美しい献辞を置いても
どんなに個人的な思い出を連ねても
詩を人目からかくすことはできないだろう
当の詩人のものですらないのだから
詩は誰のものでもありうる
世界が誰の所有でもないのに
すべての人のものであるのと同じように
詩は微風となって人々の間をめぐる
稲妻となって真実の顔を一瞬照らし出す
アクロスティックの技巧をこらして
愛する者の名をひそかに隠してみても
詩人の望みはいつも意味の彼方へとさまよい
おのが詩集にさえ詩を閉じこめまいとする
詩を贈ろうとすることは
空気を贈ろうとするのに似ている
もしそうならその空気は恋人の唇の間から
音もなくこぼれおちたものであってほしい
まだ言葉でなくすでに言葉ではない
そんな魂の交感にこそ私たちは
焦がれつづけているのだから
こんなふうに言葉に言葉を重ねながら
（「詩を贈ることについて」全文）
詩集表題とは微妙に異なるタイトルのこの作品は、「詩は万人のもの」で誰にも所有できない、という詩人の考えを明確に断言した詩として、特に際立った一篇である。それにしても、「詩を贈ろうとすることは／空気を贈ろうとするのに似ている」とは、みごとにポエジーの本質をついた名言とはいえないだろうか。時に微粒子に、時に波動にも例えられるポエジーの〈かたち〉を、ここでは「空気」と言い切っているのだから。谷川作品はその後四半世紀の間に、ますますポエジーの本質へと触手を（それも多方面から）のばし続け、今なお多様に詩の色、音、匂い、味、手触りを描き続けている。
詩集「あとがき」で谷川さんは「この十年ほどの間に、自分の詩が少しずつ変わってきたと思う」と書き、その原因として「父母の死、恋愛、離婚、自身の老い」などを挙げて
いる。やはり還暦（頃）とは、詩人にとってもまた人生の大きな転換期なのだ。感覚的官能になおこだわろうとする魂を、たとえば詩｢桜」に読み取ることができる。
花弁五個 雌しべ約三十五本 がくは壺型
校庭に咲いているそれをむしりとり
教室で虫眼鏡で観察し
小学生のころは
桜の花とはそういうものだと思っていた
だがよわい耳順に近づいて
桜の花に目の焦点が結べないのに気がついた
老眼のせいではあるまい
遠ざかって見ようとすれば
桜は得体の知れぬものに変わる
霞のように無数の花がたなびくさまは
この世の眺めとは言いがたい
（根元に死体が埋まっているとは信じない
が）
色はほとんどしゃれこうべ色
それなのにほのかに血の透くあでやかさ
「はなをこえて／しろいくもが
くもをこえて／ふかいそらが」
昔そんな詩句を書いたことがあって
その花を異国の大学生は水仙と間違えた
視線は地上に向いてはいなかったのに
第一詩集に収録した作品「はる」への自己諧謔は、十八歳時の繊細な官能を呼び戻す方法だったのかもしれない。
（３８）『子どもたちの肖像』（紀伊國屋書店1993）
初の本格的コラボ写真詩集は百瀬恒彦が撮影した子供たちの写真への作品群。一人ひとりの子供の個性を鋭く描き、まるでその子が考えている内容を代弁しているかのような自然さにまとめている。どんな年齢の子にもなり切れる才能が開花した一冊だ。
例えば、二歳の男の子を撮影した百瀬さんの写真に谷川さんが書いた詩を挙げてみよう。
なくぞ
ぼくなくぞ
いまはわらってたって
いやなことがあったらすぐなくぞ
ぼくがなけば
かみなりなんかきこえなくなる
ぼくがなけば
にほんなんかなみだでしずむ
ぼくがなけば
かみさまだってなきだしちゃう
なくぞ
いますぐなくぞ
ないてうちゅうをぶっとばす
（「なくぞ」）
今にも泣き出しそうな一瞬をとらえた写真家絶妙のテクニックにも感心するが、その一瞬のうちに渦巻く子どもの感情エネルギーを爆発的な暴力の位相で表現した詩人の憑依能力にはただ感嘆するしかない。もちろん、二歳の子どもはこんなふうな言葉を用いて内面を表白したりしない。だが、その心に渦巻く無意識的な感覚に、もし言葉というかたちが与えられるなら、子どもはきっとこんな言葉で感情のエネルギーを爆発させるにちがいない。おとなと子どもを自在に往還する谷川詩学が絶妙のタイミングで子どもの緊迫感と出会った、その一瞬のポエジーがみごとに写真との対話を成立させた一例といえるだろう。
写真の不思議に注目した文学者はこの一五〇年ほどの間に多くいた。フランスの思想家ロラン・バルトは、『明るい部屋 写真についての覚書』（一九八〇年、邦訳は花輪光、みすず書房、一九八五年）の中で、写真の機能を「ストゥディウム（共同の知識）」と「プンクトゥム（突き刺すもの）」に大別し、既知の事柄の再認の中に突如として出現する未知の刺激、発見、驚異を写真の魅惑であり魔力であると定義した。谷川俊太郎の写真詩も、｢ストゥディウム」に突如として「プンクトゥム」を生じさせる運動体ではないだろうか。
次に挙げるのは、『子どもの肖像』の中で、唯一兄妹を被写体にした写真である。しっかり握り合った手が印象的、と見るのは、詩集『絵本』の手の写真の残像のせいだろうか。幼年期の無垢に浸る少女の顔が、緊張の中にも兄への信頼に溢れているように見える。手の表情もまた。この写真に谷川俊太郎が書いたのは次のような詩だ。
いもうとというものは
いけどりにされた
すばしこいどうぶつみたい
もりへかえりたくて
いつもむっつりしてる
つかまえようとすると
てからすりぬける
しらんかおしていると
そばへきてひっかく
ゆめのなかではおおきなめで
じっとぼくをみつめる
そのときどこからか
とてもいいにおいがする
（「いもうと」）
十歳の男の子の視線が六歳の妹を不思議そうにとらえている。野生の小動物に喩えられた妹は幼年期の夢そのもののように奔放だ。この写真＝詩には実は続編があって、五年後に思春期を迎えた兄妹がぎこちなく手を結びあっている。五年前にはしっかり兄の手を握っていた妹の手が、ここでは力弱く受動的な状態に止まっているようだ。思春期にさしかかった兄妹の微妙な心理の綾が暗示されているのだ。この写真に、谷川俊太郎は「いつかまたはなはさき／たまごはかえる／あさだけがいつまでも／まちどおしい」という詩句を添えた。妹視線で書かれた本作には、思春期一般に通じる普遍的な心理が表現されている。
（３９）『世間知ラズ』（思潮社1993）
父の死、離婚、結婚と続く還暦前後の日々の瞑想と自省と不安と恍惚の中で、詩や言葉への問いがあらためて奔出し、それらの問いがさらに詩の深みへの探究に誘う。ほぼ発表順（執筆順）の配列は、この時期が詩索そのものだったからだ。表題作を全文引用する
自分のつまさきがいやに遠くに見える
五本の指が五人の見ず知らずの他人のよう
に
よそよそしく寄り添っている
ベッドの横には電話があってそれは世間と
つながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも
用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれ
なかった
行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩
人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったのか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくともゴマンとい
る
私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけ
ただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことにも気づかぬほど無邪気
なまま
百へとむかう
詩は
滑稽だ
還暦を迎えた男が自らを「世間知らず」と言うのも非常識だし、「三つ児」と呼ぶのもずいぶんエキセントリックな表現だ。と、当時（この詩集刊行時）は思っていた。だが、その後すでに三十年の時間が流れ、今もなお〈子供〉の繊細さ素朴さを失わない、どころか、むしろ自在に操っている、詩人の新作に触れる度に、この宣言が深く広いものとして納得できる。もっとも、その間に私自身も歳を重ねてきたこともあるのだが。還暦に際して「百へとむかう」と宣言した谷川さんは現在卒寿間近。いよいよ「百歳詩集」が近づいてきた。百歳で新詩集を出すときにも詩人はなお「詩は／滑稽だ」と言い切るのだろうか。
現在から見るなら、本詩集は沈黙前の最後の詩集なのだが（その「沈黙」は約十年続いた）、この時点でその「沈黙」を予想した人はほとんどいなかったし、私自身とても想像できなかった。その間の事情については次の機会に書くとして、ここでは、それでもなお谷川さんが相変わらず磊落に詩と戯れている（ように見える）作品を紹介しておきたい。ラジオを主題にした二篇のうち「夜のラジオ」の方を全文（ただし追い込みで）引用する。
半田鏝を手にぼくは一九四九年製のフィルコのラジオをいじっている／真空管は暖まってるくせに／そいつは頑固に黙りこくっているが／ぼくはまだみずみずしいその体臭にうっとりする／／どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう／でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから／ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ／／ラジオをいじることと詩を書くことのどっちが大事なのか分からない／まだ詩と縁のなかった少年の頃に戻って／もういちど埃っぽい砂利道を歩いてみたいと思うが／ぼくは忘れている／まるで時間などないかのように女も友だちも／ただもっと何かを聞きたいもっと何かが聞こえるはずだと／ぼくは息をつめ耳をすませてきただけだ／入道雲が湧き上がる夏ごとの空に／家族が集うしどけない居間のざわめきに／／生きることを物語に要約してしまうことに逆らって
（４０）『ふじさんとおひさま』（童話社1994）
一九七七年から七九年にかけて「毎日こどもしんぶん」に連載した子供の詩四十四篇。佐野洋子によるカラー挿絵入り。子供目線でしか通常捉えられない微妙なイメージを鮮やかに切り取っていく手際が鮮やかだ。この詩画集が一九九四年に刊行されたことの意義は大きい。言うまでもなく、谷川さんと佐野さんが運命共同体とも言うべき新生活を営み始めた時期だからだ。まず、いかにもこの二人らしい磊落なおおらかさをたたえた「ふじさんとおひさま」を読んでみよう。
ふじさんは おおきい
おおきいから しずかだ
ふじさんを みると
こころも しずかに なる
おひさまは あかるい
あかるいから あたらしい
おひさまが のぼると
こころも あたらしく なる
いささか単純すぎるきらいもなくはない素朴な詩に、佐野洋子さんが（『女に』とは正反対に）鮮やかで華やかな極彩色のクレヨン画を付して、独創的な詩空間を構成している。大きいこと、静かなこと、明るいこと、新しいことを、これほど短く直截に表現できるのは、やはりこの二人しかないだろう。
次に、子供の単純な遊びの中に深い省察をこめた作品「なわとび」を引用する。
ぼく かるいんだよ
とべるんだ
ぼく おもいんだよ
おちてくる
ぼく ばねみたい
はねるんだ
でも のみじゃない
にんげんさ
重力に逆らうことが「軽い」ことであり、従うことが「おちてくる」ことだ。はねることで「のみ」に変身する子供は、まるで宇宙の原理をまるごと表現しているかのようだ。
最後に、子供らしからぬ情感で、それでもたしかに子供の感性を精一杯に開放して書いたと思われる作品「あめ」を挙げておく。
あめがふると
つちの においがする
あめがふると
あしのうらが くすぐったい
あめがふると
まちが しずかになる
あめがふると
むかしのことを かんがえる
降雨が人に与える情感を、嗅覚、触覚、聴覚と、全身の感覚を駆使して表現した作品である。「むかしのことを かんがえる」などと、うっかり大人の本性をあらわした表現などと考えてはいけない。子供にも子供なりの「むかし」があり、それは一年前かもしれないし三年前かもしれない。
もうひとつ、この作品で留意が必要なことは、ここに佐野さんの絵が付されていないことだ。この次には「ゆうだち」「かみなり」と、雨にかかわる詩が続いているし、そこには佐野さんの鮮やかで大胆な筆使いによる絵も添えられている。だが、それでも詩「あめ」には、前後に絵は添えられていない。
この先は、勝手に想像を働かせるしかないのだが、佐野さんは、この詩の自律性と完結性を理解して、あえて絵を付けなかったのではないか。そして、そのことを谷川さんも、詩人としての直感で了解したのではないか。詩と絵とのコラボとは、それほどまでに互いの理解と共感と交感を必要としているのである。この後、二人はさらにいくつかのコラボ制作を残しているが、これほどまでに全面的な共鳴が起こることは二度となかった。結婚に限って言えば、一九九〇年から九六年まで、七年足らずの共同生活だった。
（４１）『モーツァルトを聴く人』（新潮社1995）
『世間知ラズ』とほぼ平行して書かれた十九篇。通常の版のほかに、モーツァルトの楽曲の入ったＣＤ付きの版がある。いずれも音楽、特にモーツァルトをモチーフに書かれ、音楽の悦楽と危険をアンビバレントな感情で描き出している。特に、ピアノと亡母についての記憶は生々しく、死の主題さえ音楽に彩られている。表題作を全文引用しよう。
モーツァルトを聴く人はからだを幼子のよ
うに丸め
その目はめくれ上がった壁紙を青空さなが
らさまよっている
まるで見えない恋人に耳元で囁きかけられ
ているかのようだ
旋律はひとつの問いかけとなって彼を悩ま
すが
その問いに答えることは彼には出来ない
何故ならそれはすぐにみずから答えてしま
うから
いつも彼を置き去りにして
あまりにも無防備に世界全体にむけられる
睦言
この世にあるはずがない優しすぎる愛撫
決して成就することのない残酷な予言
あらゆるnoを拒むyes
モーツァルトを聴く人は立ち上がる
母なる音楽の抱擁から身を振りほどき
答えることの出来る問いを求めて巷へと階
段を下りて行く
ベートーヴェンやモーツァルトをはじめ、若い頃から音楽好きで知られる谷川さんだが、モーツァルトをモチーフにした作品は意外と少ない。谷川さん自身と感性が近すぎて、題材に選びにくいのかもしれない。ベートーヴェンなら、誕生日が一日違いであることをネタにしたり、その人のためなら「召使い」をしてもいい、などと公言してきた谷川さんだが、モーツァルトについて真情を吐露した作品といえば、これしかないのではないか。
この詩の一番の特徴は、モーツァルトその人ではなく「モーツァルトを聽く人」を描いているところにある。もちろん、この「人」は谷川さん自身（あるいはその投影）である。三・四・四・三行という、谷川さん独自の変則ソネット（詩集『旅』でお馴染みだ）は悠然と落ち着いたアンダンテの音楽を想起させ、それはまるでモーツァルトの主旋律のようだ。特に、第三連の四行は、谷川俊太郎でなければ書けないカンタービレと呼んでいい。
最後の三行は、詩人自身がモーツァルトから離れて生活に戻っていく様を、寡黙な美しさの中に、かつリアルな生活意識とともに、描き出している。このようにして人はモーツァルトと生き、モーツァルトからしばし離れることで、かろうじて生きているのだ、と。
モーツァルトに対する思いは、本詩集の中で、ほかにも「そよかぜ 墓場 ダルシマー」などに凝縮して述べられている。
ぼくはマルクスもドストェフスキーも読
まずに
モーツァルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠け
ていた
一所懸命生きて自分勝手に幸福だった
この真摯な表現は、この詩人が深刻に自らの人生を悔い、これからの人生に疑いを持たずにいられなかった、おそらく初めての詩句だろう。彼は「いつかこの世から消え失せる自分」に思いを馳せながら、深く自省する。
だが沈黙と隣合わせの詩とアンダンテだけ
を信じていていいのだろうか
日常の散文と劇にひそむ荒々しい欲望と情
熱の騒々しさに気圧されて
それとももう手遅れなのか
ぼくは詩人でしかないのか三十年あまり昔
のあの朝からずっと
無疵で
（４２）『真っ白でいるよりも』（集英社1995）
集英社からの第五冊は相変わらず自在な書きぶりで読者を楽しませてくれる。『モーツァルトを聽く人』がかなり切実な思いを吐露した作品であるのに対して、こちらは、達者なサービス精神に溢れている。時に、話者は女性一人称だったり少年だったりすることもあるが、生身の詩人の姿が濃く出た作品が面白い。還暦を過ぎて孫ができて友人を失って、といった人生詩の妙味はかつてなかったものだ。表題作を抜粋して引用する。
１
自分がチェンバロになって
一晩中待っているのよ
もちろんそのモーツァルトを
まだ十二歳の
ほらそんなふうに
眠れないときってない？
２
愛ってのはころがってるのね
キッチンなんかにね
玉ねぎ刻んでて涙が出ると
思い出すわ
悲しみの理由は
いつもいつも愛だったって
３
生まれ変わったら鯨になりたい
海の中で歌って暮らすの
言葉は知らないの
でも歌はあるの
鯨の心は人間よりずっと大きいから
歌もいつまでも続くの
４
そうなんだよ
絵になる一瞬が大事なのさ
私そのために生きてる
だから私の写真一枚だけとっておいて
そいで思い出さずに空想して
私の一生を
六行詩十二篇の連作で、語り手は佐野洋子さんを反映しているのだろう。その冒頭四篇では、順に、モーツァルトの音楽、日常の愛、鯨への生まれ変わり、絵と写真と、佐野さんにとっても谷川さんにとっても重要なモチーフが描かれている。ついで、佐野さん（らしき人）の遍歴や人生観が歌われ、こう閉じる。
１２
知ってた？
気持ちにはいろんな色がある
私あなたの色とまざってもいい
真っ白でいるよりも
きらいな花の色になるほうがまし
でしょ？
陽気な色のついた詩人像は「アンパン」だ。
ぼくの父はアンパンを軽蔑していたが
フォワグラは尊敬していた
そして生涯ニンニクを愛した
母のことも愛していたと思うが
母は父を意地きたないと言っていた
戦争中息子のぼくにも内緒で
ひとりで乾燥イモを食べたという理由で
離婚を決意したこともあったそうだ
父は「雨ニモマケズ」に感動していた
一日玄米四合ト／味噌ト少シノ野菜ヲタベ
という食生活は自分には出来ないと
知っていたからではあるまいか
九十一歳のときバルセロナへ行った
ガウディを口をきわめて罵った
イベリア航空のことは褒めた
昼食にキャビアがでたからだ
死んでから勲章をもらった
法をおかしてサンショウウオをを食ったことを
誰も密告しなかったらしい
ちなみに父は哲学者だった
ぼくは今アンパン片手にこれを書いている