ほんの紹介(8

朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅』2006年、集英社新書)

 

 世界に三十数点しか存在していない、オランダ17世紀の画家フェルメールの「全点踏破」を目指して欧米諸都市を旅したドキュメンタリーである。

 19世紀後半に「再発見」され、20世紀初頭にプルーストによって「世界でもっとも美しい絵」と絶賛され、その後高い評価を得るようになったこの画家は、日本では1970年頃に谷川俊太郎が絶賛したことでも知られ、近年人気が急上昇している。穏やかで瞑想的な室内画が中心で(ほかに風景画がわずか2点)、思わず手に触れたくなる絵具の質感と柔らかい光線に独特の魅力がある。数年前に大阪で行われたフェルメール展(5点を展示)では連日行列ができ、近辺の食堂では「フェルメール弁当」(大阪的発想?)まで登場したのは、記憶に新しい。ちなみに、この展覧会の際に大勢の観覧者をさばくために増設された「フェルメールの小径」は、天王寺公園入り口から美術館までの近道として現在も利用されている。

 世界中を巡ってフェルメールを「全点踏破」したのはおそらく本書の著者が初めてというわけではないと思うが、この新書(ヴィジュアル版と称してオールカラー全37点を収録)、実にスリリングな面白さにあふれている。まず、美術書にありがちな制作年代順の解説を施すのではなく、著者がめぐり歩いた美術館ごと、その美術館のある都市ごとに配列され、そのことが紀行文として抜群の面白さを醸し出している。また、著者は美術史の専門家でなくジャーナリストであるために、ルポルタージュとしてのリアリティと、一般読者向きの入門書としての読みやすさを兼ね備えている。あえて言えば、いくぶん専門的なことがらについて勇み足を犯していることもなくはない(19世紀の美術批評家テオフィール・トレがフェルメール作品に「点描を見ていたのかもしれない」というのは愛敬といえなくもないが、明らかに無理がある。ちなみにトレは1869年没、第一回印象派展は1874年、点描作品の登場はそれよりかなり後)が、全体にはきわめて良質のアマチュアリズムが、フェルメール作品を前にして読者代表であるかのように考え、悩み、発見し、納得する様子が、実に生き生きと伝わってくる。

 特に感心したのは、まず、フェルメール作品の「来歴」(作品が現在ある美術館に所蔵されるに到った経緯)が詳しく調べられていること。これはかなり厄介な作業だ。この1世紀程度のことならともかく、今から300年以上も前に描かれた絵の来歴となると、不明なことも多く、何かと大変だったと思う。次に、作品を所蔵している美術館のたたずまいや環境、設立の経緯などに触れることで、これが上質の文化論にもなっていること。そして、17世紀オランダの歴史、風俗、政治などにも目を配ることで、絵画作品を孤立した天才の産物としてでなく、より生活風土に密着したものとして、いわば社会的文脈の中でとらえていること。いずれも、有能なジャーナリストならではの手際の良さである。

 本書がもついくつかの美点の中で、特に驚嘆したのは、フェルメール作品の風俗性の背後に宗教的寓意性を発見していく過程だ。時代を先取りした17世紀市民文化の中で描かれた脱宗教的特性、というのが、歴史文化の差を越えて日本人がフェルメールを好む要因の一つと一般には信じられている(著者も最初にそう書いている)。だが、フェルメール作品に直に、広く、深く、触れていくうちに、著者はその背後に潜む宗教的寓意を次第に見逃せない事実として発見していく。このプロセスは、本書の中でも最も読みごたえのあるところだ。その結論は、あるようでないような、とだけ言っておこう。これを読み終えた人がそれぞれに考えるべきスリリングな問題である。

2007/02/19