ほんの紹介（12）

小池昌代「タタド」（「新潮」2006年９月号）

　つい先日「川端康成文学賞」を受けたばかりの小説。まだ単行本にはなっていませんが、「新潮」誌のバックナンバーを探し出して再読しました。４０枚ほどの短篇ですが、さりげない文体の中に濃密な雰囲気が漂っていて、まるで長篇小説を読み終えたかのような読後感が残ります。この濃密さが不思議で（おそらくその正体は詩、と敢えて最初に述べておきます）、繰り返し再読を誘います。

　物語は中年夫婦とそれぞれの友人男女の計四人が海辺の別荘で週末を過す、というだけのもの。タイトルの「タタド」とは伊豆下田にある「多々戸浜」のことと思われますが、作中にその断りはありません。カタカナの表記が奇妙な作品空間を暗示しているようにも読まれます。現実には、おそらく、作者がしばしば訪れる浜辺なのでしょう。磯に出て海草をとったり、リビングでワインを飲んだり、交代で風呂に入ったりといった、中年男女のあわい交流が描かれるのですが、その間に、それぞれの（それなりに）長い人生模様が微妙なゆらぎをもって挿入されていきます。まるでマルグリット・デュラスの小説のように。ただし、デュラスの場合は内面の描写がもっぱら主人公の女性に限られるのに対して、小池作品では登場人物四人の人生がそれぞれ内と外から多様に描かれ、多彩な人間模様を紡ぎ出しています。この複合体は物語の終わり近くまで絶妙のバランスを保って（ということは微妙な距離を置いて）友愛的関係を築いていきます。老化による肉体の変化や病気や疲労や倦怠をかかえつつ、穏やかに人生を受け入れつつある中年男女の、それなりに充実した生活ぶりが端々から漂っています。随所に適度な毒（詩的な、と呼びたくなるような）を含みながら、ではありますが。

　四人で一夜を過した翌朝、ちょっとした失くし物をきっかけに、女主人公（のひとり）の内面に亀裂が走ります。「こうなるとまるで、うせものに足があるか、家そのものが、モノたちを匿っているとしか思えなかった」というように。この微かな、ある意味で理不尽な（彼女自身そのように意識している）疑いが、おそらく一瞬の悪意（無意識のうちの）を生み出すのですが、その経緯はあからさまには記されていません。まるですべての感情はその根を闇に根差している、と言わんばかりに。朝食後のささやかな会話の途中、「何かをほろぼすような声でうたっている」歌のＣＤを聴く場面で、物語は急速に結末へと向かいます。突然立ち上がって踊り出した四人は、ごく自然のなりゆきであるかのように、一気に破滅（あるいは破滅のはじまり）へと雪崩れ込んでいきます。それもごく静かに、そして同時に激しい熱を帯びた描写と共に。

　最後に四人の友愛関係を崩壊させる、おそらく破局へのプレリュードとなったのは、ノルウェイの歌手、ジゼル・エンドレセンの歌になっていますが、ここに歌の魔力というモチーフが強烈なかたちで示されています。一見、いささか軽率ではないかというほどにあっけらかんと投げ出されているモチーフですが、この磊落さこそが小池作品特有のマジックのように思われてなりません。「水気を含んだ重い歌声が、女たちの暗い子宮を満たすようにひろがる」とは、なんと直截で重い一行でしょう。歌の魔力、とさきほど書きましたが、むしろここに示されているのは日常生活に潜在しながら抑圧され続けている詩の力ではないでしょうか。登場人物たちのほんとうの欲動、と呼んでも同じことなのですが。すずやかで軽やかでありながら熱を潜在させている熾火のような情念が本作のライトモチーフなのだな、と、読み終えて初めて気がつきました。

　わずか４０枚ほどの短篇の中に（四人もの！）人生の機微をまるごと掬い取る手際は、並大抵の「新人作家」の業ではありません。詩人としての長いキャリアと散文作家としての近年の充実ぶりが絶妙の化合を経て生まれた名作、として位置づけたいと思います。この程度の短文ではとうてい掬い切れない問題系を孕んだ作品ですが、とりあえず現時点での「ほんの紹介」ということで。

（2007/04/18）