「死の島」日記
山田兼士
はじめに
今夏に予定されている福永武彦研究プロジェクトのシンポジウムの準備として、「死の島」を少しずつていねいに読み直している。もう何度繰り返し読んだか分からないが、今回もいろいろと面白い発見がある。再読する度に新しい発見のある作品を私は「生産テキスト」と呼んでいるが（反対は「消費テキスト」）、「死の島」はまさしく生産テキストそのもの。そこで、作品の中から「これは」と思ったフレーズを中心に、日記風のスタイルでメモしていくことを思いついた。福永作品への入り口として、また、いずれ書き上げるべき「死の島」論への覚え書きとして、継続していきたいと考えている。
「死の島」日記（１）
《僕が死んでもこの記憶は、すべての死者たちの記憶と一つになって、いつまでも地球の上を漂っているだろう。死が決定的に占領した地球の上を、悔恨と憤怒とに喘ぎ続ける人間たちの記憶が、放射能の灰と共に、いつまでも漂っているだろう。》（「夢」より）
長編「死の島」は水爆炸裂後の救いのない地上の風景で始まる。章題が示すように、これは主人公・相馬鼎が明け方に見た「夢」なのだが、この情景が登場人物たちの深層心理であり作品の通奏低音であることが、作品の進行とともに次第に明らかになっていく。主人公はどちらかというと楽観的で能天気な文学青年なのだが、無意識の底にこうしたペシミスムを抱えている。が、そのことに未だ青年は気づいていない。続く「暁」の章で主人公は、半覚醒状態の中で小説のモチーフとして書き留めようとしながらも、ついに眠気に勝てず二度寝してしまう。覚醒してからも何度となく夢の情景を思い出しかけるのだが、その都度イメージは闇の中に消えてしまう。この無意識を意識化するまでの経緯こそが長編「死の島」の主旋律との見方もできるのだが、そのために主人公は、大切な女友達の死という過酷な現実に立ち向かわなければならなかった。その事件は、物語が始まってすぐに相馬鼎に降り掛かってくる。(2010/04/08)
「死の島」日記（２）
《「これからの小説では読者が小説の世界の中に本気で参加するようにしむけること、つまり読者の想像力が作者によって刺戟され、彼等自身の力で、というより作者と読者との共同作業で、小説が読まれるようにすること、それが作者の任務だと思うんです。その時初めて、読者の精神をつくり変えるという仕事が作者にとって可能になる。」
「そう。有難いことね。あなたの小説を読むと、私たちの精神はつくり変えられるわけ？」》（「４日前」）
相馬鼎と萌木素子の会話の一部。作者（と２０世紀の前衛作家）の創作理念とも重なる文学青年の性急な物言いを、新進画家が揶揄する場面である。物語冒頭近く、未だ相馬青年は己の未熟さに気づかぬまま、ということは素子の奥深い虚無に対しても無知のまま、理想の文学理念をまくしたてるのだが、素子は冷ややかに応答するのみだ。この後すぐに青年は反省するのだが、その理由は、素子が「有望な新進画家」なのに自分が「まだ一度も活字になったことがない」無名の文学青年にすぎないことに思い至ったからだ。このノンシャランスが相馬鼎の快活さの源でもあり（それは素子が生きるために残された最後の可能性でもあったことが後に「内部」の章で読者に明かされるのだが、相馬にはついに明かされない）、最後には二人の女友達の死を防ぐ事のできなかった無力さにも繋がっていく。これに続く鼎と素子の対話と行動は、早くも物語前半のクライマックスを構成している。早くも、と書いたが、断章形式から成る「過去」の物語は「３００日前」を起点にしており、「４日前」はかなり物語が進行した近過去のことになる。ただ、「死の島」における「過去」は時系列にそわずに前後入り乱れた形で挿入されているために、この場面がクライマックスの一つであることに読者が気づくのは、かなり先まで物語を読み進めた後のことである。（2010/04/13）
「死の島」日記（３）
《死！ 不思議にも（と後になって彼は思い出したのだが）その時彼の感じたものは、死だった。彼の経験したことのある接吻が常に生を感じさせたのと違って、それは理窟にならない喪失感、漠然たる恐怖、絶望へのつんざくような稲妻、つまりそれは死だった。しかしそれが死だからといって、死もまた快楽ではないのか。彼は夢中になって、彼を殺すべき筈の吐息を貪り飲んだ。》（「４日前」）
（２）に挙げた議論の場面に続いて、唐突に素子が鼎に接吻をする場面。鼎は驚き怖れながらも甘美さに夢中になる。それが「死の接吻」であることを鼎は直感で理解するが、その瞬間の素子の魂の闇にまでは思い至らない。素子は結局鼎から身をかわし部屋を出て行くのだが、鼎は「その場にへたへたと坐り込」み「僕は弱い」と繰り返すのみだ。この時、鼎が実は重要な（取り返しのつかない）失策をしたことが後の「内部」の章で明らかにされる。素子はただ、単純に鼎が追いかけてくるのをドアの外で待っていた。そうすれば救われる（素子が死ななくても済む）可能性もあったかもしれないことを、素子の独白は示唆するのだが、鼎はついにそのことに気づかない。この後、「内部」の章で素子が繰り返し呟く「馬鹿な人、相馬さん」のリフレインは、青年の愚かさ浅さ弱さ、それに優柔不断を痛烈に批判することになる。その批判を相馬鼎が直接知る機会は、通時的な時間軸（「４日前」から物語の現在まで）の中でついに訪れない。これが最後の出会いだったのだ。 (2010/04/22)
「死の島」日記（４）
《相馬鼎は首を垂れて考え込んだ。どうして僕はこうへまなことばかり言っているのだろう。いつから綾子さんはこんなに僕の言うことを信じなくなったのだろう。この人は本気で彼女のことを嫉妬しているんだろうか、昨晩のようなことがあったからそれで僕はこんなに弱気なんだろうか、―そうした疑問が次々に浮び、遂に、しかし確かにこの人の言う通り、僕は彼女の方がより好きなんじゃないか、と思い当った。彼女が好きだから、綾子さんによそよそしくしてその質問をはぐらかそうとばかりしているのじゃないか。僕の中の無意識なものを、この人は女の本能で見抜いているのかもしれないな……。
相見綾子は幾らかの憐れみと、幾らかの敵意と、そして多くの懇願とを籠めた眼指で、そういう彼の様子をじっと見詰めていた。》（「３日前」）
先に挙げた「４日前」より前に置かれた「３日前」の章では相馬のもう一人の女友達である相見綾子が素子を心配して相馬を訪ねてくる。前日に起こった出来事を相馬は告白できず、かえって観念的な理論で素子の心理分析をすることで綾子の信頼を失ってしまう。そしてこの失策が永遠に二人を（あるいは二人のうちのどちらかを）失う決定的な失敗であったことを、相馬は後に思い知ることになる。二人のうちどちらを本当に愛しているのか思い悩む相馬は優柔不断そのものだし、その「無意識なもの」を「女の本能で見抜いている」綾子に対しても相変わらず危機感を覚えていない。ところで、本作中「過去」の章はいずれもおもに相馬の視点で書かれているのだが、全体は三人称なので、必ずしも相馬の視点ばかりで描かれているわけではない。相馬が気づかなかったこと、思い至らなかったことがらも、さりげなくここに描かれている。引用最終行などはその一例。綾子の憐れみ、敵意、懇願に相馬は気づいていたのだろうか。相見綾子は決して内側から描かれることのない人物である。会話のかたちで自分の気持ちや心情を語ることはあるのだが、とにかくこの女性は「女の本能」で動くのだから、語られていることの中に本当に重要な部分があるとは限らない。「死の島」の主要人物のうち相馬鼎、萌木素子、それに「或る男」はそれぞれ一人称の語りによって自らの内面を探っていく様が描かれるのだが、これに対して相見綾子だけは常にだれかの視点から描かれていく。一見したところ（この時代の）平凡な「お嬢さん」にすぎないように描かれている（じっさい、相馬はそう思い込んでいるし、一緒に暮らしている素子でさえ少なくとも途中まではそのように思い込んで、相馬と綾子を似合いのカップルと決めつけている）。だが、繰り返し読むほどに相見綾子の内面は謎めいて見えてくるし、その謎は深まるばかりだ。原爆というトラウマに取り憑かれた素子に綾子が同情して共に死ぬ、という安易な解釈を許さない切実さが、綾子の心の闇に潜んでいるように見えてならないのである。おそらく相見綾子こそまさに〈外在性という謎〉の表象なのだろう。ボードレールの散文詩「マドモワゼル・ビストゥリ」やメーテルランクの戯曲によるドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のメリザンドのように、永遠の謎としての他者なのだ。(2010/04/30)
「死の島」日記（５）
《泣いている己の側に母親もしゃがみ込んでしきりに己をあやしていた、その切迫したような、喘ぐような声を聞いているうちに己は何だか恐ろしくなり、そして母親もまた何かを恐れ、一刻も早く出掛けよう、そこから遠ざかろうとしていたのだ。》（「或る男の午前」）
「或る男」と呼ばれるこの人物は、生への絶望を根源にもち、絶えず何かから逃げ続ける存在だ。「いつでも何かから逃げることで生きて来た」と言い「何から逃げ出しているのか、そんなことは分らない」とうそぶくこの男のイメージには、例えばロートレアモン『マルドロールの歌』の次のようなフレーズが影を落してはいないだろうか。
《人生のうちには、髪をシラミだらけにした人間が目を据えて、黄褐色の
眼差しを空中の緑の膜に投げる、そんな時がある。というのも、自分の前で亡霊の皮肉な罵声が聞こえるような気がするからだ。彼はよろめき頭を垂れる。聞こえたのは良心の声だ。そこで彼は狂ったような速さで家を飛び出し、呆然とした目に止まった行きあたりばったりの方角に向かって、田園のごつごつした平原を猛然と突っ走っていく。》（第２の歌第15詩節）
勿論、「或る男」はこのような突然の激情に駆られて逃走するのではない。彼が逃げ出すのはいつも次に行く場所を確保してからのことだ。だがそれは、彼が長年の間たえず逃げ続けてきたため、逃げることがすっかり習慣と化しているためだ。だから彼は「狂ったような速さで家を飛び出し」たりはせず、準備万端整えた上で「一つの寂しさから他の寂しさへと逃げて」行く。何物とも知れぬ薄気味悪い恐怖を湛えて突然の逃走を促す「切迫したような、喘ぐような声」は、まさに「亡霊の皮肉な罵声」ではないだろうか。「どんなに泣いても笑っても無明の海を漂っているばかり」と言い「己は母親が死んだ時に一緒に死んでしまい、真の生活というものをその時からなくしてしまい、地獄にも堕ちずにこうして中有に漂っているばかりだ」と独白するこの男は、もともと「絶望からの逃走者」にほかならない、という点において福永のマルドロール像にぴったり重なる。「或る男」はマルドロール的「絶望者」を原形とし、そこに小説的リアリティを加えることによって絶望の日常化を体現した人物として造形された。この日常的ニヒリストの独白は、さらに「死の島」のもう一人の「絶望者」である萌木素子の「内部」の独白と相俟って、真にロートレアモン的な「悪」の問題を提出することになる。（2010/05/02）
「死の島」日記（６）
《いつそれが始まったのかわたしは知らない。それはいつでもそこにあった。わたしの内部に、わたしの中のどこか奥深いところに、病根のように根を張ってわたしというものを腐らせていた。わたしはそれを恐れていたし、それが内部に存在していることを認めたくはなかった。しかし認めたくないというそのことの中に、確実に、それは隠れ場所を見つけ出してわたしの生を食いちぎっていたのだ。》（「内部 A」ゴシック部分原文傍点、以下同）
中編小説「深淵」の「己」を苛む「飢」や「或る男」につきまとう虚無と同様に、萌木素子の「それ」もまた彼女自身の存在と分かちがたい根源的な悪として描かれる。だが「己」や「或る男」とは反対に、萌木素子は「それ」から逃げる術を知らず、むしろ進んでその侵食に身を委ね、最後には自ら死に直進していく。「或る男」は絶望から逃走するが、萌木素子は絶望に向かって前進するのである。
原爆の被害者である萌木素子は彼女が「それ」と呼ぶ虚無の意識に取り憑かれている。被爆直後の凄惨な状況下に人が次々と「物」と化していく情景を目撃した素子は、昭和二九年の現在もなお「それ」の脅威に怯えている。彼女が描いた「島」という絵は、相馬によってベックリンの「死の島」に比べられるのだが、彼女自身は次のように呟くしかない。
《わたしの絵は傑作でも何でもなかった。それはただの物だった。物がカンヴァスの上に寝ていただけだった。その絵の上にわたしの魂があるなどと、あなたは『島』を見て言った。そこにあったのは魂ではなく、物にすぎなかった。そして或る意味であなたの言ったことは正しかった。わたしの魂は物だったのだ。それに食い荒らされた物としてしか、わたしの魂は存在していなかったのだ。》（「内部 D」）
自らの魂を「物」としか感じられないというこの独白は、マルドロールの「第四の歌を始めようとしているのは人か石か木なのだ」（第４の歌第１詩節）という呟きや「ぼくはあいかわらず玄武岩のように生きている！」（同）という叫びと似てはいないだろうか。だがマルドロールの超人志向とは反対に、萌木素子の「物」としての自己認識はついに人間以下の存在へと自らを貶めることにしかならない。なぜなら、彼女にとって人間としての生命は広島の原爆で決定的に損なわれてしまったからだ。(2010/05/05)
「死の島」日記（７）
《相馬鼎も一緒になって笑いながらその男を観察した。前に一二度このバアで見掛けたことがある。年は彼と似たようなものらしいが整った目鼻立ちが老け込んで見せるので、初めは三つか四つは上だと踏んでいた。ただ笑うといかにも無邪気そうな若々しい表情になる。如才なくて、女たちをからかったり軽口を叩いたりする。萌木素子のようないつもそっけない女でさえも、その男に何か言われて笑ってしまったことがあり、相馬鼎は内心甚だ穏やかでなかった。軽薄な奴だ、と考えた。》（「２日前」）
作品中ほとんど交わらない二人の主要人物（相馬鼎と或る男）がかろうじて接触する場面の一つ。ここで主要登場人物の年齢を推定しておきたい。本文中からほぼ明らかなのは、萌木素子２６、７歳（１７、８歳で被爆、その８、９年後）、相馬鼎２５、６歳（素子の発言から推測）。相見綾子ははっきりしないが、女学校を卒業後、家出、かけおち、再び家出、入院、という経歴から推測して２１、２歳というところ。一見年齢不詳なのが「或る男」だが、上に引用した一節から鼎と同じぐらいと分かる。これを、今まで私は読み落としていた。手練手管の結婚詐欺師のキャラクターから見て、もっとはるかに上（例えば３０代半ば）ぐらいと思い込んでいたのだ。「初めは三つか四つは上だと踏んでいた」とあるので、実際はそうでなく「年は彼と似たようなもの」というのが正しい、ということだ。鼎２５歳。或る男２５歳。素子２７歳。綾子２２歳。昭和２８、９年頃の青年たちはおしなべて大人だった。そんな中にあって、相馬鼎はいかにも純情で無邪気な青年を演じている。北海道出身の磊落なお坊ちゃん鼎と東北の貧村出身の孤独な「或る男」はまさに正反対のキャラクターだが、ある意味で同じ存在の陽（ポジ）と陰（ネガ）のようにも見える。このことは、綾子と素子の間にも言えることで、一見かよわいお嬢さんの綾子が実は強靭な意志の持ち主であったり、一見男勝りの素子が実は崩壊寸前の魂の持ち主であったりする。明／暗と強／弱。この二つのコントラストが様々な綾を織りなすことで、四声部のポリフォニーが紡がれていく。（2010/05/21）
「死の島」日記（８）
《「一体、健全な思想なんてものが、現在のわたしたちにあると思っているの？ 人間なんて誰しもクライシスの中に生きているんでしょう？ あなただって、綾ちゃんだって、みんなそうでしょう？ 戦争が終ってからだって、日本人はみんなクライシスの中にいる筈よ、世界中の人間はみんなその筈よ、でももう忘れかけている、平和だとか共存だとか言って、泰平無事な顔をして、それで何事もなく済ませて行けると思っている。でもそうは思えない人もいる筈です。わたしは何も政治のことや社会のことを言っているのじゃないのよ。心の中のことを言っているのよ。心の中で、何かが破滅して行く、泯んで行く、何かが死んで行く、そういう感じを持つことがクライシスの中に生きているということよ。綾ちゃんにはそれがある、それは健全な思想なんてものじゃまるでないわ、そんなことが分らないの、相馬さん？」》（「１３３日前」）
家出常習者の綾子を相馬がからかい半分に心配するのを見て、素子が相馬を非難する場面。作品の舞台になっている昭和２８年のこの時期といえば、朝鮮戦争が休戦に入ったばかりの頃。東西冷戦や原水爆実験に世界中が怯えていた時代だ。福永はそうした具体的な社会背景をあまり描いていないが、世界中が次の戦争の恐怖におののいていた（はずの）時代における「心の」問題を素子に鋭く語らせている。この危機意識は、今日もおそらく不変だ。
原爆の被害者である素子はもちろんのこと、一見お嬢さん風で屈託のない（ように見える）綾子もまた「クライシスの中に生きている」ことを、素子が相馬に理解させようと気色ばむ場面だ。「心の中で、何かが破滅して行く、泯んで行く、何かが死んで行く」同類存在として、素子と綾子は魂の奥底で結びついているのだが、相馬は概念としてしか「クライシス」を理解することが（少なくともこの時点では）できない。素子はさらに、「綾ちゃんって人は、本当はわたしなんかよりずっとずっと靭いものを持っている人なのよ」と断言し、相馬の無理解を弾劾する。では、綾子の意外な一面を素子から知らされた相馬鼎は、ここで二人の女友達への見方が変わったのだろうか。少しはそうかもしれない。だが、「１３３日前」と記された章から１３３日後の（物語の）現在、二人のうちどちらか一方がすでに死に、もう一方が生死の境をさまよっていると知らされるまで、相馬鼎は二人の「クライシス」を本当には理解していなかった。相変わらず適当な距離をとって二人の女友達をモデルにした小説を書き続けるのみで、彼女たちの心の中、魂の奥底、精神の深みにまで到達することはついになかったのだ。その最後の機会をみすみす逃したことは上に見た通りだ（「３日前」と「４日前」）。(2010/06/10)
「死の島」日記（９）
《己はそれを知っていた。萌木素子の心の底に疼いていた闇を。そして相見綾子の内部に見え隠れしていた闇を。己が彼女たちに惹かれ、次第に親しく附き合うようになって行ったのは、素子さんがエクセントリックな女流画家であったためでもなく、綾子さんがやさしいお嬢さんだったためでもなく、あの二人に何かしら普通でないもの、昼の光では識別できないもの、つまり鎖された心の中に闇があることを勘づいていたせいなのだ。しかも己は、小説を書きながらその小説の中で闇が露になることを恐れていた。現実の二人と附き合う時にも、常に一歩しりぞいた位置にいて大胆に近づこうとはせず、あの二人の闇を自分の手で晴らすだけの勇気を持たなかった。そのために、今、こうして死地にある二人のあとを空しく追い掛ける羽目になってしまったのだ。しかし、どうして己は彼女たちの闇を恐れたのだろう。なぜそれが魅力であると感じながら、その魅力から強いて自分を引き離し、闇よりは光を、夜よりは昼を、彼女たちに望んだのだろう。生きることは光の中にあることで闇を孕んで生きるのは危険だと、そんな幼稚な考えでいた筈はない。己たちはみんな闇を孕んでいるし、あの二人もまた闇の中に生きていた。それが現実だった。しかし己は、恐らくは、小説の中ではそれを認めても、或いは認めることに小説家としての悦びを感じていたとしても、現実の中では何とかしてそれを認めまいと、何とかしてあの二人が昼の光の中で生きている人間であってほしいと望んで、彼女等の心の闇に対してわざと自分の眼を閉じようとしていたのではないだろうか。そして小説と現実との間のギャップが次第に大きくなり、次第に己の眼を欺き、遂には一枚の曇った窓硝子のように外側の現実を歪んだ形でしか見せなくなっていたのではないだろうか。》（「午後」）
相馬鼎がようやく自分の誤りに気づき始める一節だ。小説を〈書く〉ことが、真実の探究どころか、かえって現実の隠蔽にしかならなかったことを示唆している。二人の（一方のまたは両方の）死という厳然たる事実を前にして、以前から「鎖された心の中に闇があることを勘づいていた」相馬は「二人の闇を自分の手で晴らすだけの勇気を持たなかった」と反省するのだが、果たしてその「勇気」を持ったとして、彼は本当に「二人の闇」を「晴らす」ことなどできただろうか。例えば「４日前」に素子を追い掛けたとして、あるいは「３日前」に、その前日の素子の行動と自らの反応を綾子に告白する「勇気」があったとして、それで「二人の闇」が消えることなどあり得ただろうか。この段階で相馬はなお、己の無力・未熟を十分に自覚していない。東京から広島に向かう長距離列車の中で相馬にできることといえば、彼自身が二人をモデルに書いた〈小説〉に読みふけること、自己読解に集中することだけなのだ。自らの他者意識を深く読み込むことにこそ自身の闇を解く鍵があることに相馬が気づくのは、まだ少し先のことだ。（2010/06/18）
「死の島」日記（１０）
《「あなたがシベリウスをお好きなことは、あたしにもよく分っています。北方ということがお好きなことも、よく分りました。あなたのおっしゃる北方というのは、つまり素子さんのことじゃありませんか。そんな簡単なことが、あなたのように頭のいい方にお分りにならないのかしら？」》（「263日前」）
目次によると「（昭和）28年５月５日」の日付をもつこの章は、相馬が綾子と共にゲンちゃん（綾子と素子の下宿先である西本家の孫）を連れて遊園地に遊ぶ一日を描いている。その途中、ゲンちゃんがいない間に二人は主にシベリウスの「北方性」について会話を交わすのだが――もっぱら語り手は相馬の方だ――その場面の終わりの方で、綾子が突然上記のような断言をする。相馬が言う「北方」とは「暗いもの、寒いもの、涯ないもの、静かなもの」であり、「精神的に言えば、それは閉鎖的で、虚無的で、悲劇的で、絵画よりは音楽に近く、具象よりは抽象に近く、現実的というよりも瞑想的、形而上学的」なものである。これらの性質がことごとく、原爆の被災者である萌木素子にこそ当てはまる、少なくとも綾子よりは素子の性質に近い（少なくとも綾子にはそのように推察される）ということを相馬はまったく考慮していなかった。綾子にしてみれば、一緒に来なかった素子に代わって、相馬の素子への愛着を延々と聴かされたことになるのだが、その可能性をすら相馬は想像していなかった。素子の口癖を借りるなら「馬鹿な人、相馬さん」なのだ。この愚かさを相馬は「過去」の時間の中で繰り返し露呈するのだが、彼自身はその都度「失言」とか「失敗」を自認するものの、ついに迷妄から醒めることなく悲劇の一日を迎えることになる。
ところで、「～日前」と題される過去の章は、一見無秩序に並んでいるようだが、よく見ると、冒頭から中程にかけてそれなりの秩序（らしきもの）があることに気づく。まず、冒頭近くでは「三日前」と「四日前」、つまりごく近い過去の出来事が逆順に配置され、この部分が過去の章のクライマックス部分であることが、後の展開から明らかにされる。次いで、「300日前」から「126日前」まで11の章は、間に「二日前」「一日前」を含みながら、ほぼ時間を遡るかたちで配列されている。続く「269日前」から上巻末までの六つの章には特に秩序らしきものは見当たらない。こうした構造は、時間軸に沿って展開する現在の場面のそこかしこに織り込まれることで、主人公相馬鼎の心理の綾を立体的に描き出すことに成功している。過去の時間が途中からアトランダムになるのは、ここまで物語が進行すれば読者にとって混乱は生じないことを計算した結果だろう。言い換えれば、物語が軌道に乗るまでは時間の進行にそれなりの秩序を与える工夫を、作者が心がけた結果、ということだ。巧みな構成力というしかない。(2010/07/18)
「死の島」日記（１１）
《（…）実際にあるものは前も闇、後も闇、生きて行く間だけが僅かに微光の中に物の形を現しているものの、それさえも定かに見えることはない、そういう人生の中で己は何度も生れたり死んだりしているようなものだ、しかもその間じゅういつでも地獄にいると感じているのだ、地獄にだって黒縄地獄もあれば叫喚地獄もある、焦熱地獄もあれば阿鼻地獄もある、己の転生とはそういう色々の地獄の間を往ったり来たりしていることで、こうやって繰返し指を弾いているのだって、単調で、いつ果てるともしれなくて、これが地獄の苦役だと言えないこともない、（…）》（「或る男の午後」）
ひとりの女から別の女のところへと身を移す途中（「幕間」の時間）にパチンコ屋で玉を弾きながら「或る男」が独言する（３ページ以上にわたって読点のみで句点のない）長いフレーズの一部である。自分の人生を「地獄」と断言するこの人物こそ、相馬鼎の言う「北方」の体現者にほかならないのではないだろうか。上記（１０）に引用した相馬の言葉「暗いもの、寒いもの、涯ないもの、静かなもの」「閉鎖的で、虚無的で、悲劇的」な精神性の行き着く先には「或る男」のニヒリズムがある、と作者は示唆しているのではないだろうか。もしそうだとすれば、優柔不断な草食系「相馬鼎」と臨機応変な肉食系「或る男」は一人の人物の裏表であり陰陽であり光影ということになる。その人物とは誰か、もはや言うまでもないだろう。（2010/07/18）
「死の島」日記（１２）
《「あたしなんて三界に家なしでしょう。根なし草でしょう。いつも何処かへ行きたい、逃げて行きたいって考えているんです。」（中略）「（…）でもあたしって人間はいつでも逃げ出したいみたいなの。自分で自分が厭なんだもの、その自分から逃げたくなるの。素子さんは親切だし、とってもありがたく思っています。でもいつかは逃げ出さないとは言えないわ。あの人にはあたしが余計なのよ。」》（「116日前」）
めずらしく綾子が自分の内面を明確に吐露する場面。いつも「逃げ出したい」という切迫感は「或る男」にも通じるものだ（だからこそ綾子は「或る男」のところに走って同棲したという過去をもつのだが）。「自分が厭」で「自分から逃げ出したくなる」という告白は、一見快活で清楚な相見綾子の意外と深い存在の闇を示唆しているのだが、明確な強迫観念の理由をもつ萌木素子の場合と異なって、その闇が何に由来するのかを、作者は明示していない。「死の島」に先立つ長編「海市」の安見子が快活で健康的な表面にもかかわらず死への暗い欲動を隠していたように、綾子もまたタナトスへの深い欲望を秘めた女であることが、物語の進行とともに次第に明らかになっていく。そのことに相馬鼎は気づくはずもないのだが。
ところで、この引用文中、後半には「いつかは逃げ出さないとは言えないわ」と、「逃げ出す」可能性が綾子自身でなく素子へとすり替えられている（相馬は気づくはずもないのだが）。奇妙なすり替えだ。素子と綾子は（それに「或る男」もまた）いつか「逃げ出す」べき存在として描かれているのだ。その「逃げ出す」べき行き先については、もはや言うまでもないだろう。タナトスのトライアングルが構成されている。相馬鼎だけを置き去りにして。(2010/07/18)
「死の島」日記（１３）
《「（…）わたしは広島で原爆に遭ったから、今でも時々具合が悪くなる。その度にこうして病院にはいって診てもらっているのよ。どうせ今の医学じゃ、わたしみたいな身体のことはよく分らないのよ。いつ急におかしくなるかもしれない。でも死んだ方がましだとは思わないな。わたしには家族もないし、友達もないし、生きていて何になるだろうと時々ふっと考えるけど、でも生きている、生きなきゃならないんだって自分に言い聞かせるの。」（「カロンの艀」）
相馬が書きつつある３篇の小説の一つ「カロンの艀」中の一場面。「あたしは死んだ方がいい位なんだわ」と呟いたA子に対して、M子が発する言葉である。もちろん、A子は綾子ではないし、M子もまた素子ではない。二人の女をモデルに相馬鼎が自らの想像力によって創り出したキャラクターだ。ここに決定的な誤解があることに、注意深い読者なら気づくだろう。つまり、相馬はM子を生への前向きな存在、意志強靭な人物として描いているが、その原型である素子は決して「生きなきゃならない」とは考えていない。だが、そうした現実と虚構との決定的な差異に読者が気づくとしても、相馬はそのことに気づかない。少なくとも、この小説「カロンの艀」のこの章を書いた時点で、それにこれを急行列車の中で読みつつある現在（の「午後」）においても、相馬の迷妄は相変わらず迷妄のままなのである。同様に、綾子の同棲事件を元にした「恋人たちの冬」においても、戦後間もない頃の広島時代の素子を想像して書いた「トゥオネラの白鳥」においても、A子とM子の造形はあまりに類型的であり、優れた作品とは到底言えない代物だ。相馬鼎という未来の、というより未然の作家が勝手に創り出した平凡なキャラクターに留まっている、と言うしかないのである。
断るまでもなく、上に述べたのは「死の島」という作品に登場する「相馬鼎」の作品のことであって、作家福永武彦の作品のことではない。もちろん、作中作としての三つの「小説」は福永の創作によるものだが、それは相馬鼎という作中人物に書かせた架空の作品である。だからこれら３作品の未熟さは福永の未熟さでなく「相馬鼎」の未熟さをきわめてリアルにシリアスに示す座標となっている。最後には相馬はそのことに気づき、迷妄から覚醒することで「作家」として目覚めることになる。そのための伏線として、相馬の手に拠る３作品は未熟でなければならない。それにしても、とあらためて思う。このように未熟な作品を敢えて創作できる作家とは一体どれほどの技量の持ち主であろうか、と。相応のキャリアを積んで５３歳に達した作家が２５歳の小説家志望青年の未熟さを演じているのである。福永武彦は下手な作品を敢えて創作する技量の持ち主でもあったわけだ。(2010/07/18)
「死の島」日記（１４）
《己は群集の中で孤独だし、彼女はあの店の中で孤独なのだ、と彼は呟いた。しかし己が彼女を求めているようには、彼女の方では己を求めていないのかもしれない。一緒に帰るのは厭だと思っているのかもしれない。そしてまた針のようなものが彼の胸をちくちくと突き刺し始めた。己は多分彼女を愛しているのだ。でなければ嫉妬なんかする筈はないのだから、と彼はそこに立ったまま自分に言い聞かせた。彼が諦めて立ち去るまで、「レダ」の扉はとうとう開かなかった。》（「100日前」）
《綾子さんはひょっとしたら此処へ来たかったのではないか、此処へ来てゆっくり僕とお喋りがしたかったのではないか。（中略）この殺風景な、独身者の八畳間。夢を紡ぐ小さな部屋。もしも綾子さんが此処に来ていたら。もしも今此処にいたら。
机の上に置いた彼の両手の甲が、そこだけが、いまだに燃えるように暖かかった。」（「88日前」）
《愛、その言葉が今や奇妙に抽象的に彼の耳に響く。一体己はあの二人を愛していたのだろうか、と彼は自分に訊く。あの二人を、ということはない。萌木素子を、または相見綾子を。もし愛していたのなら、責任は己にある。責任の一部ではなく、責任の全部が、己にある。しかしもし愛していなかったのなら、……それでも責任は己にあるだろう。（中略）誰が死んだのか彼はまだ知らない。誰が生きているべきなのか、彼はまだ知らない。しかし二人のうち、誰かは生きているし、その一人は必ず生きていなければならないのだ。なぜならその一人を、彼は愛しているのだから。》（「夕」）
連続する三つの章から抜き出した。「100日前」には「己は多分彼女を愛しているのだ」と素子への愛を「自分に言い聞かせた」相馬が、その12日後には綾子からの愛を憧憬している。この後、何度も繰り返し相馬は二人への愛の真偽に思い悩み、そのことで素子から痛烈な非難を受けたり上記（１０）のように綾子からさえ非難されたりもするのだが、それでも尚、迷いは晴れないまま日を重ねてしまう。その結果が「夕」の上記引用箇所の自責である。その自責について見るならば、ここにはきわめて歪んだ責任放棄（ノンシャランス）の姿勢が見られはしないだろうか。二人のうち一人はすでに死んだのだが、その一人がどちらなのかは不明だ。そのことを名古屋駅で受け取った電報で知ったばかりの相馬は、動揺のためとはいえ、生き残った方を「愛しているのだから」とは、よく断言できたものだ（ただし、ここには作者の微妙な描写コントロールが見られるのであって、「中略」した部分で主語は「己」から「彼」へと変換されているのだが）。「誰が生きているべきなのか」とは、まるで彼に愛されることが生き延びることの必須条件のようではないか。どちらか一人を選べという究極の選択。だが、実は相馬に選択の余地はない。なぜなら、その一人とはすでに決定してしまっているのだから。奇妙に捩れた論理と言うしかない。原因と結果の捩れ現象？ 自らの決断がないままに宿命（と呼んでいいのなら）の方が決断を下した。その決断によって、相馬は生き残った方を愛する運命を決定付けられるのである。奇妙にも、その事実に相馬は未だに気づいていない。この期に及んでなお彼は自らのノンシャランスの重大さに十分気づかぬままに、「再び（創作ノートの）続きの部分を読み始める」だけなのである。(2010/07/19)
「死の島」日記（１５）
《「あたしも怖いのよ、」と彼女は繰返した。「だからこそ、愛が育って行くのよ。二人とも壊れている。二人とも傷ついている、でしょう、それだから愛が必要なんじゃないの。あたし、本当を言うと、今迄はあなたに引き摺られて来ただけ、愛だなんてちっとも思っていなかった。でも今は、これは愛だと思うわ。あなたは弱いのよ、自分の弱さを無理やりに抑えつけて我武者らに闘って来たのよ。あたしもそう、あたしだって怖くて顫えているの。だからあたしたち、これから二人で愛を育てて行くことが出来ると思うの。あなたはそうは思わない？」》（「トゥオネラの白鳥」）
（１４）に挙げた「夕」の場面の後には「トゥオネラの白鳥」「恋人たちの冬」もう一度「トゥオネラの白鳥」と続くのだが、これら３章の中からの引用はどうにも気がすすまない。そこではM子とSが、A子とKが、いかにもありきたりのメロドラマを演じるのみで、よく言って感傷的、もう少し正直に言うなら類型的な習作にとどまっていると言うしかない。だが、上に挙げた箇所だけは確認しておかなければならない。虚構のM子と現実の素子がいかにかけ離れたキャラクターであるかを確認するために。
これよりかなり後の章（新潮文庫で200ページほど後）で自分の「小説」を読み終えた相馬が「相見綾子と萌木素子は、A子やM子よりも百倍も複雑なものを持ち、彼の思考や想像力や論理の働く領域の外で、自由に生きている（生きていた）のだ」（「深夜」）と認めざるを得ないように、相馬は綾子と素子をごく表層でしか理解できていなかったために、A子とM子を単純にしか描き出せなかった、己の非力を痛感せざるを得ないのである。ただし、ここでも作者は微妙に「己」を避けて「彼」を用いているのだが。(2010/07/20)
「死の島」日記（１６）
《「（…）しかし寂しい女と寂しい女が一緒に暮していてそれでどうなるというのだ、桃子と彼女とがお互いの寂しさを消し合って幸福に暮せるとでも思っているのか、そんな筈はない、女たちはみんな寂しい、女たちが少しでも、暫くでも、幸福になれるとしたらそれは己のような男と一緒に暮すことによってだけだ、己のような人間はいつも無明の闇にいることを知っていて寂しさをとことんまで味わいながら、表だけは陽気に、女たちの気持を理解してやさしく扱うことの出来る男、そういう男と一緒にいることだけが、和子や操や明美や保子や時子や沢子やにとって一番の幸福だったのだ。しかし彼女はそうは思わなかった、そういうことを理解しなかった、己のやりかたが間違っていたのかもしれないが彼女が生れつき持っていた寂しさの塊りは己の愛情では溶けなかった、己の愛情？ そうだろうか、何か己には分らないものがそこにあったに違いない、だから彼女は己から逃げ出して行ったのだ。（…）」》（「或る男の夕」）
「或る男」が、バアに勤める桃子（素子の源氏名）を家まで送って行って偶然玄関先で綾子の姿を認めたときのことを回想する場面。逆光のため自分の姿を綾子に見られることはなかったものの、彼は驚き怖れてその場をそそくさと立ち去った。「しかし彼女は」の「彼女」とは綾子のことだ。「或る男」は綾子を一貫して「彼女」と呼び、過去に関わりを持った女たちとの間に一線を引いている。
ここに描かれているのは、「女の寂しさ」をたとえ一時的にせよ紛らわすことのできるドンファン的キャラクターの存在証明とも呼ぶべき男の自負だが、綾子にだけは（そしてごく幼い頃の女友達だった「ああちゃん」にだけは）普通の女の寂しさに当てはまらないような「寂しさの塊り」を認めている。「彼女」が「己」から逃げ出した本当の理由が存在そのものの本質的孤独にあったことを、また、その逆もまた真であったことを、「或る男」は経験的直感によって見抜いているのだ。相馬鼎の想像力とはまったく正反対の経験力の働きによって。(2010/07/21)
「死の島」日記（１７）
《「世の中には分ることと分らないこととあるわ。なぜ自殺するのかは当人の他には誰にも分らないでしょう。弱さから、純粋なものを貫くことが出来なかったから、それとも疲れたから、——人は何とでも言えるわ。新聞の片隅の記事を、ちょっと眼に入れて次の瞬間に忘れてしまったからと言って、それに文句をつけるわけにはいかないわね。だけど相馬さん、あなたは駄目よ。あなたはそんなこと言って、加藤道夫という一人の藝術家が自殺したことを遣り過すわけにはいかないのよ。あなたやわたしはそうはいかないのよ。わたしたちは同じ道を歩いているのだから。」》（「31日前（つづき）」）
素子にクリスマスプレゼントを渡すためバアを訪れた相馬に、素子が加藤道夫自殺のニュースを突きつける場面。加藤道夫は福永武彦の友人で劇作家。昭和28年12月22日に自殺した。本章「31日前」は昭和28年12月23日なので、作者は現実の友人の自殺という事件をリアルタイムで物語に挿入したことになる。ただし、この時点で作者福永武彦は加藤道夫と同じ35歳。相馬鼎はそれより10歳ほど若い設定だ。作者と作中人物とのこの年齢差には作者の意図が秘められていると思われるが、このことはまた別項で。中編「冥府」を書くきっかけともなったこの友人の自殺について、福永は萌木素子の語りという設定で「藝術に対して真剣すぎるほど真剣に考えていた人」と書き、相馬鼎には「何も死ぬことはない。純粋ってことは、こんな戦後の騒々しい世の中じゃ生きていけないってことなんですか。僕はそんなふうに純粋でありたいとは思わないな」と語らせている。死んだ友への敬愛と疑念とを共に登場人物のキャラクターに重ねて吐露しているわけだ。
加藤道夫の自殺について批判的な口ぶりの相馬に対し、素子は「じゃあなたは俗物になりたいの。見そこなったわ」と厳しく弾劾する。上の引用はその少し後の場面。気になるのは、最後の「あなたやわたしはそうはいかないのよ。わたしたちは同じ道を歩いているのだから」という発言だ。ここで素子は「作家志望」の一青年を加藤道夫や自分と同じ「藝術家」であることを前提として「わたしたち」と呼んでいる。これに対し相馬は「まだ半人前にもならず、可能性を手探りしているだけ」に過ぎない自分が加藤道夫と「同じ道が約束されているのだろうか」と、10歳上の藝術家への羨望を覚え、素子が「わたしたち」と呼ぶことの意味に思いを馳せようともしない。さらに、相馬は「同じ道」について考えをめぐらせるのだが、素子の言う「わたしたち」については最後まで無頓着なままだ。素子は「わたしたち」という言葉で加藤道夫と自分のことよりむしろ相馬と自分の共通性を主張しているのに（ということは相馬に対して藝術的共鳴を求めているのに）相馬はついにそのことに気づかない。(2010/07/21)
「死の島」日記（１８）
《「しかし何さ、その地獄って？」
｢地獄を知らなければそれで結構よ。わたしは加藤道夫という人が、地獄を見たことがあると考えたまでよ。一度地獄を見てしまえば、地獄はいつでもその人の心の中で呼んでいるんだわ、早くお出で、って。｣
｢しかしいつ？ いつ見たんだい？｣
｢知るもんですか、そんなこと。戦争中かもしれないし、戦後かもしれない。子供の時かもしれない。でも自殺する人間はみんな地獄を知っているのよ。この世のものでない風景を知っているのよ。｣》（「31日前（つづき）」）
（１７）の続きの場面で萌木素子と相馬鼎が加藤道夫の自殺について語り合う場面。設定は過去（31日前）だが、「死の島」の読者にとっては、すでに素子と綾子が自殺した現在とそれに先立つ素子の「内面」の章を読み進めているので、素子の自殺論を十分に理解できる。「早くお出で」と呼びかける「地獄」が、「内部」の章で「それ」（傍点付き）と呼ばれるものとほとんど同一であることも、読者には明白だが、相馬にはうまく理解できていない。本章は、この後、素子の幻影に感染したかのように、ボードレールの詩を思わせる「死の舞踏」を相馬が目撃するところで終っている。「骸骨が一組、そしてもう一組、身体をぶつけ合うようにして踊っていた。マンボのリズムに合せて彼等の骨がからからと鳴る音が聞えていた。テーブルに坐った骸骨が手を叩き、その骨と骨との当る音が板の上を骰子の転げるような響きを立てた。彼は驚き、冷汗が全身に沁み出るのを感じ、しかも呪縛されたように骸骨たちの踊りから眼をそらすことができなかった。」(2010/07/21)
「死の島」日記（１９）
《「もう八年も経っているんですよ。」
｢まだ八年しか経っていないのよ。こだわるって言ったわね？ わたしは原爆にこだわる気はないわ、でも原爆がわたしにこだわるのよ、原爆がわたしを捉えているのよ。｣
｢それは魂の問題でしょう？｣と相馬鼎はいよいよ激して声を大きくした。「だから僕は心を開いてほしいってあなたに頼むんです。僕はあなたが好きなんです。どうしてそれを認めようとしないんです？」》（「27日目」）
（１７）（１８）に挙げた「31日前」から４日後、素子が描いた「島」を譲り受ける約束をとりつけた相馬が「僕が好きなのはこの絵の作者なんです」と告白した後に続く対話である。「原爆がわたしにこだわる」という表現は精神的外傷（トラウマ）の本質を端的に示す表現だ。この後、素子の背中に刻印されている凄惨なケロイドを見せられた相馬は、「戦慄と困惑と羞恥との入り混った感情を抱いて」一散にその場から逃げ去って行く。この場面から170ページほど後の「内部K」の章で素子は、この時のことを「あの臆病な、のぼせ上った、人生が何であるかを頭でしか理解することの出来ない相馬さんには、わたしの背中のケロイドを見て、悪魔というものはどんな爪痕を魂に刻みつけるものかとくと見届けることが必要だった。だからあの人は怖くなり、わたしの牢獄から逃れることが出来た」と振り返り、さらに「４日前」（上記（３）の項参照）の自らの行動を次のように回想する。「蒲団の敷いてある部屋で二人きりになり、その蒲団の上に倒れかかったとしても、あの人は恐ろしくてわたしから逃げ出すことしか考えなかったのだ。馬鹿な人だ、相馬さん。」(2010/07/21)
「死の島」日記（２０）
《彼女の凍りついたような孤独は、この八年間に少しも癒されず、たとえ綾子さんが彼女を愛し、僕が彼女を愛したところで、それは彼女の心の表面を掠めて行くにすぎず、心の深いところには決して突き刺さらないのだ。広島は彼女を殺してしまった。彼女には生きる悦びは何もない。彼女が広島に帰ったのは生きることを確かめるためではなく、既に死んだことを確かめるためだ。無駄なことだ。何万人の人がそこに集まり、原爆に抗議し、人類が自ら滅亡しないために平和を冀っている時に、あの人はそれ自体が滅亡なのだ、虚無なのだ。》（「170日前」）
「死の島」という物語全体の中では上述の「27日前」より後ではあるものの、過去の（相馬が生きた）時間の中では143日も前に、相馬はすでに素子の虚無をこのように理解していた。それは、夏休みに北海道に帰省するために乗った夜行列車の中での内省においてである。しかし、そのような「理解」は相馬の中でそれ以上に深まることはない。「頭でしか理解することの出来ない相馬さん」という素子の批判はまったく正当だったのである。相馬が素子の魂の奥深く巣食っていた虚無に気づくのは、素子と綾子の自殺の知らせを受けて広島に向かう深夜の急行列車においてである。「己はM子を理解し、A子を理解し、M子とA子とを含む現実を理解したつもりで書いて来た。しかし己は素子さんも理解できなければ綾子さんも理解できず、素子さんと綾子さんと己とを含むこの現実に対して、まったくの無理解無能力のままで生きて来たのじゃなかったか。己が文学青年じみた小説なんか書いて時間を空費していた間に、二人の女たちは現実の中で苦しみ、死ぬ勇気を持ち、死ぬ決断を下し、一人は確かに死んだ。己は小説を書くことが行為だと信じ、彼女等の行為を見殺しにしてしまった。小説なんてものは、結局は何の役にも立たなかった。」と、反省する相馬の心境は悲痛だ。(2010/07/21)
「死の島」日記（２１）
《彼は懸命に手足を動かし、ねばねばした水の中を泳いで行く。そして遂に、素子のぐったりとなった身体を探り当てる。水に漂う髪が彼女の蒼白い顔のまわりを海藻となって取り巻いている。彼はその裸の肩を、乳房を、腕を、狂気のようにまさぐる。しかしその時、もう一人の女の手が彼に纏わりつく。
「あたしを助けて、相馬さん、あたしを……。」
一人しか助けることはできない、と彼は考える。二人を同時に抱えて泳ぐことは出来ない。一人だけだ。》（「深夜」）
深夜の夜行列車の中で相馬が見る夢の中で、彼は遂に一人を決定的に選んだ。素子を。深層心理の奥深い所で（なんなら魂の領域で、と言ってもいい）彼が本心から求めていた者は萌木素子だった。だが、この夢のお告げもまた、相馬自身の意識の中に定着することはなく、明け方に見た水爆破裂後の世界の風景（「夢」の章、本稿（１）参照）と同様、目覚めと同時に曖昧さの中に溶けいってしまう。助けようとした一人が素子であった夢を相馬が思い出すのは、後の「朝（一、病室）」の章で、生き残った綾子の眠る顔を見た瞬間だ。「しかし彼が夢の中で、そして今現実の中で、会うことを求めていたのは、ひょっとしたら萌木素子の方ではなかったろうか。」(2010/07/21)
「死の島」日記（２２）
《（…）悪事か、己みたいな男が彼女の場合にだけ殊勝な心懸けを起したというのが不思議だ、あなたは人を愛することを知らない可哀そうな人だ、そう言った彼女の言葉が、そのあと己の心の中に刻み込まれて、己はその呪縛から逃げることが出来なくなったのだ、いや反対に、その言葉の意味が己に分って来るにつれて己は何とかして彼女から逃げようとしたのだ、矛盾しているかな、呪縛されたからこそ逃げたくなった、彼女が己を愛して、人を愛することを知らない哀れな男だと思えば思うほど、己の方は彼女に愛されるにふさわしくない人間だと自分を考えて、無理にも彼女から遠ざかろうとしたのだ、（…）》（「或る男の深夜」）
（１２）で見た綾子の逃走願望と同様に、或る男もまた、常に何かから逃げようとし続ける人物だ。ついに巡り会った魂の救済者と見るべき「彼女＝綾子」からさえ、いや、それが彼にとって救済者であり得るからこそ、魂の救済を拒絶するこのニヒリストは逃走しなければならない。行き場を失って深夜の大雪の中をさまよい歩く或る男は、「彼女」との過去に思いふけるうちに、現実のことなどもうどうでもよくなってしまう。文庫本で１０ページほどにおよぶ或る男の内的独白は、「死の島」全体を通して最も迫力に満ちた叙述と言っていい。悪の権化であり透徹したリアリストであり徹底したニヒリストである或る男の魂が、烈しい内省と開き直りと、そして浄化への希望の中に、微妙な筆致で描き出されているのである。その最後の部分を引用する。「雪の白い輪が燃えている。己は逃げまわってやっとここまで来た、この先もう少し行けば彼女の赦しが得られるとしても己は何だかこのままでいいような気がする。己は何から逃げ出したのか、何を追い求めていたのか、そんなことは考えるだけの値打ちもないことだった、己のような碌でなしが何処でどうなろうと誰にも関係のないことだ。彼女は少しは悧口になってもう男に騙されることもなく愛などという愚かしいものに眼がくらむこともないだろう、彼女はきっと幸福になるだろう、あの寂しい微笑を少しずつ忘れて行くだろう、しかしひょっとして己が眼を覚ました時にうたた寝なんかしては厭と言いながらすぐ側でやさしく微笑しているかもしれない、たとえそういうことがなく己の眼を覚ましたところが地獄だったとしても己はちっとも構わない、己のような男の行き着くところが地獄しかないことを己はとうの昔から知っていたのだ。／雪の白い輪が燃えている。／それが眩しい。」
「或る男」の章はここで終っている。大雪の東京の深夜の中でおそらく凍死するこの人物は、それとほぼ同じ時刻に広島で「彼女」が女友達（彼にとっては桃子）と服毒心中を計りつつあることを知る由はない。だが、この残酷ながらも美しい文章によって作者は、三人の〈逃走者〉に孤独死ならぬ（二人あるいは三人の）交感死（＝愛による死）という救済を与えた。それはまた、主人公・相馬鼎の〈シャドウ〉の死でもあった。(2010/07/22)
「死の島」日記（２３）
《見る限りの夜の空が白く変貌し、見る限りの夜の海もまた白く変貌した。そして空と海との間を占めるすべての空間を、その白い粉末はさらさらと滑り落ちながら、夜の本来の色である凍りついた鉄錆色を塗り消していた。（中略）まるで若さを証明するかのように啜り泣いている綾ちゃんを取り巻いて、鏡の中の広々とした海の上に音もなく雪が降りはじめた。それとも、泣いている綾ちゃんを見詰めているわたしの眼がその時すっかりそれに捉えられそれに化身して、雪の降りはじめた白く平らかな海の表面のような眼で、彼女を見ていたというのだろうか。彼女を、そしてわたしを、鏡の中に。（中略）それは塗り潰したカンヴァスの表面のようにわたしの心を真白く塗り潰した。しかし今ほど空も海も一面に真白い雪に覆われていることはなかった。なぜならば今ほどそれとわたしとが一体になったことは嘗てなかったから。今はもうそれはわたしで、わたしはそれだったから。》（「内部 K」）
海も空も、のみならず鏡の中の虚像までが、ということは世界中のすべてが、雪の白さに飲み尽くされる場面だ。この瞬間、「わたし」はついに「それ」と完全に一体となり、生と死の合体が完成する。雪はその一片一片が時間の喩であり、記憶や過去や死者の喩でもある。福永が愛したボードレールの「象徴の詩学」とは、このように事物と観念との間の完璧な照応関係を見出す魔術のことだった。
萌木素子の「内部」の雪景色は、実は彼女が見た幻影である。この小説で「内部」の章は、相馬鼎が列車で旅したり「或る男」が雪の東京を徘徊する日より一日前に設定されており、実際に広島に雪が降るのは素子が自殺を図った翌日のことだ。つまり、物語の文法で言えば、この雪の場面はあくまで彼女の錯覚でしかない。だが、我々読者の文法によれば、その直前「或る男」の章末尾の雪の印象があまりにも強烈なために、そうした物語的なつじつまを忘れて、この雪をあたかも実際に降っている雪であるかのようにごく自然に読み取ってしまう。つまり、物語の文法とは別に、イメージの文法（詩の文脈と言ってもいい）では、ここで雪が降るのはごく自然なことなのだ。こうしたイメージの連鎖によって、
『死の島』は真に現実と幻想、事実と想像、日常と非日常との総合世界を創出していると言える。萌木素子の「内部」に降る雪は、まさしく彼女の意識と無意識を覆い尽くしてしまう。その大雪には、広島＝死の島の大量死の純化されたイメージが込められているのだろう。(2010/07/22)
「死の島」日記（２４）
《彼女ハ太陽ヲジット見詰メテイタ。不思議ナコトニソノ太陽ハチットモ赤クナカッタ。アラユル色彩ガ混合シテ白ク見エルヨウニ、高温ニ達シタ火焔ガ白ク光ルヨウニ、異様ナホド真白ナ太陽ダッタ。（中略）コノ太陽ハワタシノモノダ、ト彼女ハ呟イタ。オ前ハワタシノモノダ、ト太陽ハ叫ンダ。ソシテ凍ッタ白イ太陽ハ轟クヨウナ笑イ声ヲ立テタ。
わたしは自分の蒲団に横になり、綾ちゃんは隣の蒲団に横になった。もう何もすることはなかった。
さよなら、とわたしは言った。
さよなら、と綾ちゃんは言った。
わたしのもの、とそれは言った。（「内部 L」）
「内部」の章では、原爆投下直後の回想部分を示す片仮名表記のところで萌木素子は三人称で示され、現在の独白である平仮名の部分では一人称で示されている。ここで重要なのは、過去と現在がシンクロするかたちで一つの終局を描いていることだ。過去の場面で「白イ太陽」が「オ前ハ私ノモノダ」と叫んだ時、現在の「それ」もまた萌木素子のすべてを侵食する。過去における魂の死が現在における肉体の死と一致するのである。
「それ」とはあらゆる人間感情を超えた終末の意識であり、この長篇小説全体の雰囲気を支配する絶対的深淵を暗示している。あらゆる色彩を拒絶する究極的な「生」の暗黒――それはまた「死」の究極的な姿でもある――を作品に定着するために、福永は全ての名詞を拒絶し、「それ」に最後の一言を託した。(2010/07/22)
「死の島」日記（２５）
《その時彼は漸く、死者が恐るべき力で彼から、そして相見綾子から、奪い去ったものが何であったかを理解する。――それは愛だ、生きた者どうしの間で取り交すことの出来る愛だ。その愛を死者が奪い取ってしまった以上、もう己と綾子さんとの間に愛というものはあり得ないのだ。彼はそれをゆっくりと自分に言い聞かせる。まるでその言葉にこそ、死んだ萌木素子の霊を慰めるための、唯一の弔辞ででもあるかのように。》（「朝」）
広島への長い旅の果てに待っていた「朝」は、萌木素子の死と相見綾子の生という事実だった。素子の遺体を前にして「死は力だ。死は（中略）恐るべき力で何物かを奪い取るのだ」と認識した相馬鼎は素子を「その虚無の故にこそ愛していた」ことを確信し、「今こそ彼女は確実に虚無に化してしまったのだから、虚無の故に彼女を愛していた己は百倍も、この、虚無そのものである彼女を、愛さなければならない」と決意する。こうして虚無への愛を確認した相馬は、生き残った綾子に対しては「単なる憐れみをしか感じることが出来ない」。虚無の視線から永久に逃れられない運命を痛感した相馬は、死そのものを描き出す小説家へと変容できるのだろうか。(2010/07/22)
「死の島」日記（２６）
《萌木素子が死んだのなら、相見綾子も死ぬという夢の論理はそれなりに成立するだろう。しかし萌木素子は死んではいないのだ。彼女は狂気となって生きているのだ、としたら相見綾子の死はまったくの非条理、まったくの無意味ということになりはしないか。そんな馬鹿げたことがあっていいものか。》（「別の朝」）
刊行当初から何かと話題になった、「三つの終り」の二つ目からの引用。最初の「朝」では素子が死に、第二の「別の朝」では綾子が死に、第三の「更に別の朝」では両者ともに死んでいる。第一の「朝」で死による虚無の力を痛感した相馬は、「更に別の朝」で死の不条理を味わう。死にもそれなりの論理（つじつま）があるのなら、綾子の死は素子の死によって担保されなければならなかった。さらに「更に別の朝」で相馬は二人の愛による交感死を見出すのだが、同時に、死者たちから疎外された自身の中に虚無がすっぽりと入り込むのを避けることができない。(2010/07/22)
「死の島」日記（２７）
《二人の女の脣は、互いに会話を交しているかのように、ごくかすかに顫えている。二人が何を話しているのか、その声は決して彼の耳には届かない。しかし彼は死んだ女たちの親しげな、二人だけの会話の中に、彼の先程の相見綾子への質問、何が君を死なせてしまったのだ？――の答を見出す。それは愛だ。相見綾子を死なせたものは、彼女の萌木素子へ寄せる愛だ。》（「更に別の朝」）
二人の遺体を前にして、相馬はついに前日の明け方に見た「世界の終り」の夢を思い出す。水爆が落ちた後の荒涼たる風景は、二人の女が死んだ後の虚無と重なって、相馬の魂を烈しく揺さぶる。まる一日をかけて相馬が追い掛けていたのは「愛の選択」だったはずだが、「彼が到着したところは、あの悪夢と同じ虚無、同じ死の国にすぎなかった」。その「虚無」をあらかじめ知り尽くしていた（そのため「島」という不吉な絵を描くことができた）萌木素子が「初めから存在しないも同じ」だったのに対し、「生きるために生れて来た」はずの相見綾子はなぜ死ななければならなかったのか。その問いに対する答えが上の引用である。
ところで、「三つの終り」については様々な解釈があるのだが、私は次の三つの可能性を考えたい。
（１）「朝」と「別の朝」は実は相馬鼎の夢の続きで、本当の終りは「更に別の朝」。
（２）「朝」が本当の終りで、残る二つこそが夢の描写。
（３）三つの朝はそれぞれ可能態として成り立つ現実で、読者はそれぞれの結末の意味を多様に捉えればいい。
いずれにせよ、三つのうち一つを選べ、ということではない（クイズではないのだから）。それに、これら三つの「朝」は決して小説のエンディングではないことを忘れてはならない。「更に別の朝」の次には「内部 M」の章が中身は空白のまま３ページにわたって続くのだし、さらに「終章」が置かれているのだから。(2010/07/22)
「死の島」日記（２８）
《彼、相馬鼎は、窓の前に立って意識の揺れ動くままにまかせていた。彼方の空では、灰色の幾重もの襞をなした雲の群が次第に動き、次第にその重なりを解き、色相を薄くして行き、遂にその切れ目から太陽の金色の箭が、ひと筋、弓弦の音も高く放たれた。その一條の光は彼の立っている仄暗い窓の中へ、明らかな光芒を描いて、目覚めのように射し込んだ。》（「終章・目覚め」）
夢が思い出されることによって初めて意味を持つように、現実もまた「過去形によってのみ記述される性質のもの」であることを自覚した相馬鼎は、「死から射す陰鬱な明るみ」に照らされた「生の実体」を描くことこそが「小説」である、と主張する。「己の「小説」によって、死者は再び甦り、その現在を、その日常を、刻々と生きることが出来るだろう。己の書くものは死者を探し求める行為としての文学なのだ、いなそれは死そのものを行為化することなのだ」と宣言する相馬鼎は、明らかに二人の女友達の死を体験する前とは異なった人格の持ち主だ。上に引用した情景は「死の島」のまさにエンディングにふさわしい光沢を放っている。
では、この情景はいつのことなのか。本章の冒頭には「それはいつのことだったのか」とあって、「目覚め」の時期が固定されていない。私はこれを、昭和41（1966）年１月、と敢えて特定したい。福永武彦46歳。「死の島」の連載が始まったときのことだ。素子と綾子の死を昭和29年、25歳で体験した相馬鼎は、12年後に46歳の福永武彦となって「死そのものを行為化する」仕事に着手し、病気による中断をはさんで昭和46年53歳でこれを完成した。奇妙な計算だろうか。だが、昭和28年の相馬鼎が当時の作者の年齢より10歳若く設定されていたことを思い起こせば、この数字のマジックを解く鍵が見つかるだろう。25歳、つまり昭和18年の福永武彦は、その前年暮れに招集を受けたものの様々な事情が重なって即日帰郷となり、危うく戦死を免れた。その10年後を舞台とする「死の島」の主人公が25歳であることになんらかの伝記的な意味があるとすれば、そこに戦死者への弔いの意識、あるいは贖罪の意識がこめられていたとしても何の不思議もない。この点をもっと掘り下げて考えるためには福永文学全体への眺望が必須と思われるのだが、ここでは「死の島」における伝記的要素の可能性を指摘するにとどめて、ひとまず「日記」を閉じることにする。(2010/07/22)