詩の果実　蜜柑／檸檬／桜桃

（「樹林」２０１８年１２月号）　　　　 　　

山田兼士

　アダムとイヴの昔から詩は果実であった。なぜなら知恵の実は詩の実でもあったのだから。原始において〈知〉と〈詩〉はまったくの同義ではないにせよ、少なくとも類義語ではあったのだ。永遠という理想を叶える非時香菓(ときじくのかくのこのみ)にせよ、白雪姫の毒林檎にせよ、果実がもつ超自然／脱自然の力はいずれも詩の象徴と解釈することができる。近現代の文学作品においてもまた。

　ここでは、近代小説における代表的な詩の果実を三つ並べてみたい。いずれも短編ながら作者の詩精神を鮮やかに反映した作品である。

彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思うほど、揃って背が低かった。そうしてこの町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢いよく左右に振ったと思うと、たちまち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑がおよそ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。 　　　（芥川龍之介「蜜柑」より）

　いかにも見窄らしく場違いな小娘への嫌悪をサディスティックとさえいえる克明さで描いてきた筆致が、日の色をした蜜柑が宙を舞う描写で一転する。「刹那に一切を了解」させるのは詩の果実だ。これに続く描写はすべて説明であり、散文の言語にすぎない。それらの言述がなくても、この作品はただ一瞬の蜜柑の輝きによって詩を現前させている。その現前を促したのは作者の詩精神だ。みじめな現実の中に屹立する詩の発見である。

　見渡すと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘型の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

　不意に第二のアイディアが起った。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。

　――それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。――

　私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

　変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。

　　　　（梶井基次郎「檸檬」より）

　檸檬爆弾という奇抜なイメージが、乱雑な色彩の混沌に置かれた「紡錘型の身体」のもつ緊張感によって導き出されていることに留意しよう。周囲のアラベスクを統合する主調色をもつ檸檬は、その色彩によって詩的秩序の象徴と呼ぶべき物体だが、その色彩だけでなく、形といい重さといい（「――つまりはこの重さなんだな。――」）まるで手榴弾のようなエネルギーを秘めた果実は、その爆発力によってもまた、まさに詩の塊である。

　子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。

　桜桃が出た。

　私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首輪にように見えるだろう。

　しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　（太宰治「桜桃」より）

　太宰の最晩年に書かれた家族小説の一つで、しばしば家庭破壊者の苦痛を主題にしているなどと評される作品だが、その苦痛の内実は単純ではない。ぜいたくで美しい果実を｢極めてまずそうに食べ｣る姿は、自嘲や自虐を越えて、一種の達観にまで届いてはいないだろうか。ここで達観と呼ぶのは、散文的現実を越えた詩的超越のことだ。また、作品冒頭から繰り返される「子供より親が大事」というフレーズ（リフレイン）は、まるで詩の呟きのように響いてはいないだろうか。

　ここで戯画風に描かれている自画像は、詩の果実さえいかにも不味そうに、それでも食べては種を吐く、詩人の絶望の形象である。「子供よりも、その親の方が弱いのだ」との認識は、その絶望の中に芽生えた新しい自我のあり方だ。できることなら、その絶望の中で吐かれた種が、新しい果実の始まりであってほしかった。もしそうなれば、まったく新しい（新種の）詩の果実が生まれたかもしれないのだ。

　蜜柑、檸檬、桜桃。いずれも詩的精神に溢れた小説家が描いた詩の果実は、散文の中に漲るポエジーの所在を、明らかに鋭く、しかも繊細に指し示している。