萩原朔太郎『宿命』の六色
――散文詩六篇における色彩について
（「PO」2012年春号）
山田兼士
「色彩と文学」というテーマなら、まずボードレールの「コレスポンダンス（交感、照応）」の根幹となった｢シネステジー（共感覚）｣を挙げなければならないだろう。｢様々な香りと色と音が互いに応え合う｣（「コレスポンダンス」『悪の華』所収）と歌った諸感覚の融合のことだ。あるいは、ランボーが韻文詩「母音」で歌った｢Ａは黒、Ｅは白……｣という、音と色の交換可能性のことがすぐに思い浮かぶだろう。さらに通俗的な使用例としては、アンドレ・ジッドの小説「田園交響楽｣の中で、盲目の少女に色彩というものを教えようとして、主人公の牧師が楽器の音色を色彩に例える場面が挙げられるだろう。そうした先例を念頭に置きつつ、ここでは萩原朔太郎の散文詩における色彩性を考えて行きたい。
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萩原朔太郎最後の詩集『宿命』（一九三九年）は、過去に刊行した詩集とアフォリズム集からの再録作品を中心に、詩人自らが自身の詩的生涯を一冊にまとめたリミックス詩集だ。ただし、「散文詩」七十三篇と「抒情詩」六十八篇のうち、一九三六年から三八年にかけて書かれた散文詩六篇のみは、どの先行書物にも未収録の新作であり、かつ『宿命』一巻を編む契機になったという意味において、詩人晩年の詩想を探る上で特に重要なものだ。筆者は先に、これら六篇の主調色を（いささか主観的ながら、と断りつつ）示唆することで、その多彩性に注意を促した（「萩原朔太郎『宿命』再考」｢現代詩手帖」二〇一一年十月号掲載）。ここではその直観を、詩集内の作品配列に従って検討してみたい。
●｢蟲｣＝黄
或る日の午後、私は町を歩きながら、ふと「鐵筋コンクリート」といふ言葉を口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわからなかつた。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽幻な哲理の謎が、神祕に隱されてゐるやうに思はれた。
散文詩「蟲」は、曖昧な媒体の中に沈む「哲理」を求めて、思い悩み周囲を困惑させる詩人の物語である。ここで「私」は「テッキンコンクリート」という音の連鎖――関東大震災以後に普及した、漢語と英語の組み合わせから成る新奇な語のリズム――に取り憑かれ、一種のノイローゼ状態に陥るのだが、最後に「ふいに全く思ひがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、靈感のやうに閃めい」て、思わず「蟲だ！」と叫ぶ。曖昧模糊とした脳内にさっと射す日差しのように「靈感」が閃くことで、明るく磊落な結末を迎える本作の主調色は黄である。灰色の脳内に射す、光に最も近い色である黄は、憂鬱な生活の中にあってしばしの希望を与える光でもある。
私は聲をあげて明るく笑つた。それから兩手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな形をして、嬉しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。
このエンディングは、憂鬱な色彩が多い朔太郎作品群にあって例外的に朗らかな色に染められている。
●｢虚無の歌｣＝青
「蟲」とは対照的に、憂鬱な色彩である青を基調とした作品。「青」は「憂鬱なる」という意味である、と詩集『青猫』序文が語るように、人生全体を｢虚無｣にほかならないとする本作の主調色は青以外に考えられない。
私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤獨の椅子を探して、都會の街街を放浪して來た。
だが、この青は今では闇に近い青ではなく、限りなく透明に近い澄んだ青である。「永久に一つの「無」が、自分に「有る」ことを信じたいのだ」と述べる詩人は、本作を次のように締め括っている。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒を飲んでる。虚無よ！ 雲よ！ 人生よ。
虚無を虚無として受け入れつつ人生を静観（あるいは諦観？）する詩人は、「晩秋」の「午後の三時」に窓辺から射す青い光に目を細めていたに違いない。
●｢貸家札｣＝緑
熱帯地方の砂丘に生えている一本の椰子の木にかけられた「貸家アリ。瓦斯、水道付。日當リヨシ。」の木札をポケットに入れ歩き出す旅行者を描いた、シュルレアリスム風のコント。その主調色は椰子の木の緑だ。緑は前の二作品の主調色である黄（希望）と青（憂鬱）を融合した色でもある。前半に描かれる「一疋の獅子」が大地に寝そべっているように、詩人もまた、緑の下に怠惰に寝転がっているのだろう。そこに現れる旅行者は、未知を求めて彷徨した若き日の詩人自身の姿でもあるだろうか。
ヘルメツトを被つた男は、默つてその木札をはがし、ポケツトに入れ、すたすたと歩きながら、地平線の方へ消えてしまつた。
砂漠、獅子、椰子の木、旅行者と続くイメージの連鎖は、朔太郎が「荒涼地方」と呼んだ人生のトポスと見て間違いないだろう。緑のオアシスが散見するからこそいっそう、この空間は詩人の人生を過酷に責めつけるものだった。
●｢この手に限るよ｣＝赤
緑の補色である赤は恥であり愚である。
夢の中で、角砂糖を使ったマジックによって「給仕女」の心を掴んだ詩人は、さも得意げに「この手に限るよ」と言うのだが、夢から醒めてからも耳から去らないこの言葉に、「私は可笑しさに轉がりながら、自分の中の何所かに住んでる、或る「馬鹿者」の正體を考へるのである。」と自嘲する。「巴里の伊達者がやる以上に、スマートで上品な擧動」に悦に入る詩人は確かに馬鹿者にほかならず、その愚かさの主調色は赤である。赤はまた、詩人が角砂糖を投入する紅茶の色でもあるだろう。しかもこの紅茶は煮え立っている。
熱い煮えたつた紅茶の中で、見る見る砂糖は解けて行つた。そして小さな細かい氣泡が、茶碗の表面に浮びあがり、やがて周圍の邊に寄り集つた。その時私はまた一つの角砂糖を壺から出した。そして前と同じやうに、氣取つた勿體らしい手付をしながら、そつと茶碗へ落し込んだ。
手品好きの片鱗を見せる一節だが、自身の詩作こそが実はこの手のマジックに過ぎなかったのではないか、との自戒とも読める。微笑ましくも「痛い」自己認識ではないだろうか。この痛さもまた赤い道化の色を帯びている。
●｢臥床の中で｣＝黒
臥床の中で、私はひとり目を醒ました。夜明けに遠く、窓の鎧扉の隙間から、あるかなきかの侘しい光が、幽明のやうに影を映して居た。それは夜天の空に輝やいてる、無數の星屑が照らすところの、宇宙の常夜燈の明りであつた。
この散文詩の主調色は、あらゆる色彩を闇に沈めた黒だ。「あるかなきかの侘しい光」はその黒を引き立てこそすれ、決して照らし出すことはない。「牡蠣のやうに眠りたい」と願い「止めよ。止めよ。斷乎たる決意をとれ！」と呪文を唱える詩人は、しかし、闇の中にほの見える僅かな光にかろうじて「生活」への意志を取り戻す。
だがしかし、その時朝の侘しい光が、私の臥床の中にさし込み、やさしい搖籠のやうにゆすつてくれた。古い聖書の忘れた言葉が、私の心の或る片隅で、靜かに侘しい日陰をつくり、夢の記憶のやうに浮んで來た。
神はその一人子を愛するほどに、汝等をも愛し給ふ。
言葉は光、という聖書の一節が示すように、「朝の侘しい光」は生への祈りであり、同時に、黒から白への転換を促す――夜の怠惰から昼の活動へと詩人を追いやる――呪いでもある。
●｢物みなは歳日と共に亡び行く｣＝白
物みなは歳日と共に亡び行く。
ひとり來てさまよへば
流れも速き廣瀬川。
何にせかれて止むべき
憂ひのみ永く殘りて
わが情熱の日も暮れ行けり。
かつて「廣瀬川白く流れたり」（「廣瀬川」『純情小曲集』中「郷土望景詩」所収）と歌ったように、この詩の主調色は白以外にない。本作中には他にも「白い菫」「白日」｢虚無の墓｣など、白を思わせるイメージが頻出する。
過去の自作抒情詩を引用しつつ散文で繋いで行くスタイルは朔太郎には珍しく、ここに新しい詩法の萌芽を見ることもできるだろう。過去の自分とのコラボレーションという方法だ。これは縮小再生産ではない。むしろ拡大再生産と呼ぶべきだろう。そういえば、『宿命』そのものが、過去の作品の再録が中心とはいえ、配列や構成に独自の意匠を凝らすことで、過去になかった大部の詩集を実現したわけで、これ自体を拡大再生産と呼ぶことが十分できるわけだ。
過去との対話ばかりが本作のすべてではない。久しぶりに萩原先生が新作詩を作った、と初出当時話題になったという抒情詩は次のようなものだった。
わが草木とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき。
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。
——父の墓に詣でて——
全行七・五のリズム構成から成ることから分かるように、典型的な文語定型詩である。これを朔太郎晩年の絶唱と呼ぶのは牽強付会との誹りを免れないだろう。だが、この六行に続く散文（詩）を合わせ読むと、不思議に清澄な憂愁が立ち上がっては来ないだろうか。
父の墓前に立ちて、私の思ふことはこれよりなかつた。その父の墓も、多くの故郷の人人の遺骸と共に、町裏の狹苦しい寺の庭で、侘しく窮屈げに立ち竝んでる。私の生涯は過失であつた。だがその「過失の記憶」さへも、やがて此所にある萬象と共に、虚無の墓の中に消え去るだらう。父よ。わが不幸を許せかし！（引用者注・「不幸」は「不孝」の誤りかもしれないが、意図的である可能性も否定できない）
「敗亡の／歴史を墓に刻む｣のは他ならぬ詩人自身である。｢私の生涯は過失であつた｣と断じつつその「過失の記憶」さえ「虚無の墓の中に消え去る」ことを予測する詩人の眼差しは、遠く永遠の彼方に向けられているかのようだ。
抒情詩と散文詩を交互に組み合わせた本作こそが、萩原朔太郎の墓碑銘とは言えないだろうか。その墓の色は言うまでもなく白だ。「臥床の中で」の黒い虚無と｢物みなは歳日と共に亡び行く」の白い虚無から成る二相系の虚無が『宿命』散文詩群の到達点であり、まさしく詩の宿命だったのだ。この地平から、詩人は自らの抒情詩の「歴史」を辿り直すことで『宿命』後半部の「抒情詩」群を編集する。『月に吠える』のみを除外し『青猫』から『氷島』へと至る詩的遍歴をまさに白紙から創り直すのである。
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『宿命』散文詩群の末尾に置かれた新作詩六篇の色彩を検討してきたが、これらの配列にも注意を払っておきたい。初出誌を頼りに執筆順に並べてみると、六作品は「虚無の歌」「臥床の中で」「蟲」「貸家札」「この手に限るよ」｢物みなは歳日と共に亡び行く｣の順になる（ただし「臥床の中で」と「蟲」は同時）。ここまで挙げて来た主調色に置き換えるなら、青・黒／黄・緑・赤・白の順だ。ということは、憂鬱から絶望を経て希望と怠惰と愚かさを通って虚無へと至ったことになる。
これに対して、詩集における配列は、黄・青・緑・赤・黒・白であり、すでに見て来たように、より構成的かつ立体的な構造になっている。要するに、直線的でなく曲線的、単一的でなく複合的、静態的でなく動態的、ということだ。更に言い換えるなら、何通りもの対立構造を活用して、六篇の散文詩を極力効率的な多層体に仕立てようとの意図が働いていることがわかる。最も光に近い黄と光から遠い青の対立。補色関係にある緑と赤の対立。そして黒い虚無と白い虚無。特に、「蟲」と「臥床の中で」は共に一九三七年一月号（「文藝」と「四季」）に発表されており、希望の黄色と絶望の黒色が同時に表現されていたことがわかる。これを詩集配列のように組み替えたことは、『宿命』一巻を極めてドラマティックな構造体として提出しようとの意志の表れとしか考えられない。
本稿では萩原朔太郎の散文詩六篇に見られる色彩に焦点を絞って論じたのだが、『宿命』全体の精緻な構造については触れることができなかった。そもそも今日なおテキスト自体がまともに出版されていない状況で（筑摩版『全集』でさえ「抒情詩」群は目次のみの掲載に止まっている）、読者にその重要性と魅力を全面的に理解してもらうには真に不利な現状と言うしかない。近い将来における『宿命』完全版の復刻を願って、本稿を閉じることにする。なお、筆者自身による既発表の『宿命』論を挙げておくので、興味のある方はご一読頂きたい。
「萩原朔太郎・詩の〈宿命〉�氈@散文詩集の生成」（「詩論」八号、一九八五年十二月）
「同 � 抒情の終焉」（同九号、一九八六年六月）
「同 �｡ 詩の逆説あるいは小説の夢」（同十号、一九八七年十二月）
以上三点は長野隆編『萩原朔太郎の世界』（一九八七年、砂子屋書房）に所収。なお、これら三篇の初出誌である｢詩論｣第八、九、十号については筆者の手元に若干の在庫があるので、ご希望の方には無償で提供します。メールにて次のアドレスにご連絡下さい。
また、「�｡」と他二篇の論考「萩原朔太郎｢蟲｣を読む」｢萩原朔太郎の一行詩 鏡のうしろにあるもの」は『抒情の宿命・詩の行方』（二〇〇六年、思潮社）に所収。なお、この二篇はホームページ「山田兼士の研究室」内の｢評論・エッセイ｣でもお読み頂けます。
http://homepage2.nifty.com/yamadakenji/informations.htm
「萩原朔太郎『宿命』再考」（「現代詩手帖」二〇一一年十月号）