斎藤恵子の詩三篇鑑賞

（「ポスト戦後詩ノート」第２号、２０１６年９月）

山田兼士

　独自の不気味な（と呼んで差し支えない）幻想性を特徴とする、斎藤恵子の近刊詩集三冊から、比較的短い作品を選んで、ごく簡潔な鑑賞を試みたい。

　まず、二〇〇八年七月に刊行された詩集『無月となのはな』（思潮社）から。

　　感傷

風に逆髪を突きたててざわめく

針葉は地におちても

人という字をくずさない

イヌになったわたしは

　う　おん

ちいさくほえ

根もとを前脚でほりさげる

わたしの眼に

やにのような泪がうかんでいる

埋められたものたちが

弓張り月の宵によんでいる

　最初三行の描写が一挙に読む者を異界へと誘うかのようだ。針葉樹が風に揺れる様を「逆髪を突きたて」と擬人化し、その一葉を「人」という文字に見立てるのは、ある意味でモダニズム的発想ともいえるが、詩はもちろんそこで終わらない。冒頭の三行は、あくまで次のイメージへのスプリングボードにほかならないからだ。「地におちても」形をくずさない針葉とは対照的に、「わたし」はあっさり「イヌ」に変身してしまう。そして「う　おん」と吠えて「根もとを前脚で」掘ったりもする。ここには〈不変の針葉〉と〈変容するわたし〉の対比が描かれることで、自己存在の危うさ儚さがさりげなく示されている、といえるだろう。この危うさが、不気味さの源だ。

　最後の四行は、「わたしの眼」に浮かぶ「泪」と、「埋められたものたち」が向き合う「弓張り月」＝弦月との対比を描いている。犬と月、土を掘るという行為、それにタイトル「感傷」と並べてみると、萩原朔太郎的「感傷主義」の現代的展開と見えなくもない。それにしても、わずか十二行の中に、変容への不安と風景の不穏を重層的に表現する力は並大抵ではない。この凝縮力が、斎藤恵子の詩の魅力だ。

　次に、二〇一一年七月刊行の詩集『海と夜祭』（思潮社）から。

　　影の犬

春の夕方の影はぼんやりしている

振り向いたら

わたしの影はやわらかく動き

犬のかたちになった

震えている

犬にもはずかしがりやはいるのだろうか

道のはしっこをとぼとぼ歩いている

うしろを向いたかたちで

　うしろ向きね

言ったひとは大きな声でけたたましく笑った

影も大きくてのしのし歩いている。

ひそひそと風はそよぐ

黒い犬のわたしは面を伏せる

耳を澄ませ

遠く笛のように泣く声を聴き

尾から夕やみに溶けていく　　

　春の夕方に歩いていてふと気づくと「わたしの影」は「犬のかたちになった」というのは、前作と同様に、自己存在のあやふやさ、不気味さ、流動性の表象だ。斎藤恵子の「わたし」はちょっとしたきっかけでこのような変容を遂げる不確かな存在として描かれている。ここにも犬が登場するのは偶然ではない。犬は人間の最も近くに存在する異種だからだ。ただし、ここで「犬」に変容するのは「わたし」ではなく「わたしの影」だ。

「はずかしがりや」で「道のはしっこを」歩く癖があって「うしろ向き」の存在、というのはいささか誇張された自己像の戯画だろう。「うしろ向きね」と笑う「ひと」は外在化した「わたし」と解釈するべきか。その大声に呼応するかのように、犬の「影」は歩幅を大きくすることで存在感を主張する。そこに「ひそひそと」そよぐ微風（異界からの風）が｢わたし｣と「影＝犬」の化合体である「黒い犬のわたし」を生み出すのだが、なぜかその新存在は「面を伏せる」。ここには「影の犬」としての「わたし」の微妙な違和感と焦慮が暗示されているのだろう。ここで沈黙（の一行）が入る。この空行は不気味だ。

　最後の三行は聴覚と視覚の共感覚的表現である。微かに泣くような笛の音は「影の犬」の存在を「夕やみ」に溶かし込んでいく。「尾から」というディテールは、この不条理に奇妙なリアリティを付与することで、不気味な実在感を醸し出している、といえるだろう。一見おだやかで静かな抒情詩の姿をまとっていながら、日常の細部に潜む魔を鋭くとらえる視線はただごとではない。

　最後に、二〇一五年九月刊行の詩集『夜を叩く』（思潮社）から、これもごく短い一篇を見ていこう。詩集巻末の作品である。

　　オルガン

オリーブ色の服を着たひとが

オルガンを弾いていました

夜の部屋です

青紫の大きな譜面台があります

近づいて見たら

四角な青空でした

花のように星が降っています

どこかで

生まれたひとがいるのです

「オリーブ色の服」と（たぶん黒色の）「オルガン」の組み合わせが、まず、視覚的にあざやかなコントラストを描いている。そこに「青紫」色の「譜面台」があると思ったらそれは「青空」だった、と展開するはこびは、色彩の上でも、リズムの上でも、迅速でしかも丁寧だ。「いました」「です」「あります」「でした」と連なる過去形の語りと現在形の描写の組み合わせが、行から行へのリズムを心地よく刻んでいる。「夜の部屋」から「青空」への瞬間移動もあざやかだ。

　だが、なんといってもこの詩の最大の魅力は最後の三行にあるだろう。前行の「青空」を受けるのは、昼の情景ではなく、「花のように星が降」る夜の情景である。その星たちに祝福されるかのように「どこかで」人が生まれた、というエンディングは、意外性もあり蓋然性もあって面白い。ひそかな誕生の秘儀を称えるかのように、静かな余韻を残して詩は（そして詩集は）終焉を告げる。

　この詩だけでなく、さりげない日常の中にふと差し込む魔の気配を繊細に掬い取った二十五篇は、現在までのところ、斎藤恵子の詩の集大成的な到達点、と見ていいだろう。オノマトペの用法にも特徴があり、微妙な感覚表現を支えている。戦死した叔父や自死した知人のことなど、今は亡い人たちの気配も、時に濃厚に、時に曖昧に描かれて、独自の幻想性を醸しだしている。すぐれた達成と呼ぶべき一冊だ。