冥府の朝

（「交野が原」８９号）　　　　　　　　　　　　　　　　　　

山田兼士

どうやら朝らしい薄明のなかで目が覚めた

これで何日めだろう　ベッドの中で何本もの線につながれて

動けないので病室の中の様子しかわからないが

隣室の物音やロビーらしき空間での話し声で

ここが生者の住む場所であるらしいとわかるのだ

病室の隅にはオーク材で縁取られた大きな鏡があって

開放された扉の外部を映し出していて

時折通りかかる職員や車椅子の患者の姿を見せている

たまに若いナースが声をかけてくれるが　口がよく動かなくて

うまく反応できない　言っていることはわかる

目の届く場所に窓がないので外の様子は見えないが

たまに鐘の音が聞こえるのはミッション・スクールだろうか

窓にそってバルコニーがあるらしく

そこから牛乳を温めパンを焼くにおいが漂ってくる

なぜかロシア語で挨拶を交わす声が聞こえてくる　

このところ眠る度に見る夢がずっとつながっている

自宅の寝室とこの病室が二重空間になっている夢だ

夢のなかではそれなりに動けるが現実にはベッドに固定されている

高熱で倒れてから二ヶ月ほど　記憶はまったくないが

なんとか一命をとりとめ　移ってきたこの病院でリハビリが始まる

妻にそう告げられてから一週間ほど経った

今もまだこの世とあの世を行き来している感覚が拭えないが

聴覚だけはどうやら現世の物音を拾うようになってきた

ときおり隣室から聞こえてくるのはドイツにいるはずの友人の朗らかな声だ

同業者のフランス語の呟きや上海マフィアの詩人の大声だ

鏡の中から謎めいた微笑をうかべ彫像がこちらに歩いてくる

というのは錯覚　ほんとうは鏡などなかった

開いたままの扉から長身痩躯の女性が入ってくる

この朝は冥府ではない朝とつながっているのだった

部屋を訪れる人々もみな　生きた人なのだった