町田康が歌う中原中也

（「PO」２０１８年春号）

山田兼士

　町田康が二〇一一年に刊行した『残響』（ＮＨＫ出版）は、サブタイトルに「中原中也の詩によせる言葉」とあるように、中也の詩五十七篇に町田さんが自身の言葉を付した一冊である。この本は、当初、二〇〇八年の秋にＮＨＫのテレビ番組で町田さんが案内役を務めたのがきっかけとなって、後にウェブ版連載として書かれたものだ。単行本の表紙にはイタリック体で「machidakou sings nakaharachuya」と記されていて（二〇一四年に刊行された講談社文芸文庫版ではなぜかこの表記は消えている）、少なくとも刊行当初、「中原中也の詩によせる言葉」が多分に「歌」を意識して書かれたことをうかがわせる。本稿では、この本に収録された中也の詩と、その詩によせられた町田康の言葉＝歌を読解し、現在を代表する詩人作家と中原中也との化合の仕方を検討することで、生誕一一一年を迎えた現在なお中也の詩が現代人に与え続けている魅力の一端を示していきたい。

　最初にいささか個人的な事情を述べさせていただく。二〇一五年六月、東京で開催された日本現代詩人会主催の「日本の詩祭」で町田さんと対談したのだが（後に「びーぐる」第二十九号に掲載された）、この後にもう一つ企画があって、それは、『残響』に収録された中也の詩を会員の詩人たちが朗読し、これに「よせる言葉」を町田さんが朗読する、というイベントだった。この企画は事前に私が町田さんと打ち合わせをした折に発案したもので、当日朗読された十三篇はいずれも私が選択した。そのタイトルを記しておく。「骨」「サーカス」「一つのメルヘン」「春の日の夕暮」「正午」「詩人は辛い」「曇天」「（テンピにかけて）」「臨終」「冬の長門峡」「言葉なき歌」「汚れつちまつた悲しみに……」「四行詩」。いずれも町田さんの言葉＝歌を重視しての選択である。

　この中から、ここでは三篇を取り上げて、中原中也と町田康の時を隔てた〈対話〉の意義を探っていきたい。

　　言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど

おれは此処で待つてゐなくてはならない

此処は空気もかすかで蒼く

葱の根のやうに仄かに淡(あは)い

決して急いではならない

此処で十分待つてゐなければならない

処女(むすめ)の眼(め)のやうに遥かを見遣つてはならない

たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐ

　た

号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊細だつた

けれどもその方へ駆け出してはならない

たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘ぎも平静に復し

たしかにあすこまでゆけるに違ひない

しかしあれは煙突の煙のやうに

とほくとほく　いつまでも茜の空にたなびいてゐた

　中原中也が最も敬愛した詩人ヴェルレーヌの詩集表題をタイトルに冠した作品で、これまで多くの論者によって様々な解釈がなされてきた。特に、「あれ」とは何か、について、例えば佐々木幹郎は「『あれ』を自らの『死』と読み、『此処で待つて』いる『おれ』との対比関係の中で、現在の自分の非在感を歌いあげる」と読み解き（『中原中也』筑摩書房、一九八八年）、北川透は「絶対の矛盾を超越した《無私の境》」（『中原中也わが展開』国文社、一九七七年）を指摘し、中村稔は「（…）抽象的な性格に、この詩の特色があり、多様な理解を許しながらもしかも読者の感性に訴える、抽象性の美しさというものが、この詩の鑑賞の中心になるだろう」（『言葉なき歌　中原中也論』角川書店、一九七三年）と述べるなど、それぞれに魅力的な読みを提出している。佐々木幹郎はまた、最近上梓された『中原中也　沈黙の音楽』（岩波新書、二〇一七年）では「『あれ』は『歌』である、とここでは言っておこう」と、いくぶん含みをもたせつつ新しい解釈を示している。私自身としては、そうした様々な解釈を感受しつつも、究極的には「あれ」とは「死」である、と言い切りたい気もするのだが（この点については拙著『抒情の宿命・詩の行方　朔太郎・賢治・中也』思潮社、二〇〇六年、の中で詳細に述べた）ここでは、そうした多様な解釈を促す詩「言葉なき歌」に町田康がよせた「言葉」を紹介したい。

　そこらへんに居住して、海鮮丼を食ったり、韓流ドラマを見たり、恋に憧れたりして、糞便を垂れ流している大多数の人間は、この世のどこかに、アレ、が存在することを知っている。知っているから生きていられる。でも、アレをみることは多分一生ない。

　ところが。稀に、アレ、の、在処、を偶然知ってしまうことがある。そうすっと大変だ。うわあ、あの、アレ、の在処を俺は知ってしまった、と浅ましく狼狽え騒ぎ、うわあ、うわあ、と叫びながら両手を伸ばして、アレ、に近づこう、アレに触れようとする。

　もちろん、そんなことで、アレ、を見られる訳がない。儚くて壊れやすい、アレ、は忽ちにして消失し、そして当人は、アレ、のごく近くまで行った、という認識によって現実に帰還できず、滅びる。

　俺は昔から、アレ、がどこにあるかを知っているからそんな愚かなことはしないが、その俺だって、アレ、を近くでみたことはまだない。まあ、いずれみるけどね。それは絶対だけどね。

　とにかく、普通の人間は、アレ、を見ようなんて思わないことだ。それがコツだ。壺だ。壺漬になった大根だ。

　いつもながらパンクでキッチュな「町田節」だが、いわんとする中身はいたって真剣なことだ。最初に日常生活の中で「アレ」の存在の確かさと、にもかかわらず不可知な在り方が示され、次いで「アレ」との接近がもたらす危険が示され、最後にその不可避性が示される。「まあ、いずれみるけどね。それは絶対だけどね」と軽口的に示唆されるのは、ほとんど〈死の不可避性〉のことと推察されるのだが、町田康はそうとは断言しない。なぜなら、この言説は（かぎりなくラップに近い）歌であるからだ。佐々木幹郎が「歌」と呼ぶものを、あくまで町田康は「アレ」で押し通すことによって、言い換えれば「歌」の実践によって、パラフレーズしているのである。このパラフレーズはほとんど演奏に近いものだ。つまり町田康が歌う中原中也(machidakou sings nakaharachuya)なのである。

　　汚れつちまつた悲しみに……　　

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮裘(かわごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところなく日は暮れる……

　促音便の多用が七五調の定型リズムを内部で激しく揺さぶっているように聞こえ、全十六行の詩の中に「汚れつちまつた悲しみ」を八回も繰り返す、という執拗なほどのリフレインと相俟って、中也作品の中でも（「サーカス」と並んで）際立って音楽性に富んだ詩だが、これを町田康はどのように演奏して(うたって)いるか。

　ソースが垂れる。出汁が飛び散る。まだ火がついているタバコの灰を落とす。無理矢理に鞄に押し込んで折れ曲がる。排気ガスを浴びる。嘔吐する。土足で踏みにじる。バックしているときに電柱にぶつかる。煤が溜まる。モスバーガーを食べてベタベタになった指で触る。

　俺がもっとも大事にしていたものの身の上にそんなことが連続して起こってしまって、俺がもっとも大事にしていたものはもはや見る影もない。その、見る影もなくなった、俺がもっとも大事にしていたものに、冷たく正確な死が、無数の銀の直線の形をとって垂直に降る。時間が垂直に突き刺さってくる感じ。

　俺のもっとも大事にしていたもの、ってなんだよって、ってか？　ははは、それは、比喩的に言えば、もう俺と一体化して皮膚のようになってしまった衣服のようなものだよ。大事な大事な一着しかない衣服だよ。そんなものに、ソースが垂れる、焼け焦げができる。そして、そのうえ、時間が垂直に突き刺さるのだ。たまらんよ。やれんよ。

　それ自体は、ということはだから俺自体は、ということなのだけれども、もういいよ、と思ってる。早く、終わんねぇかな、と思ってる。どっちが？　って馬鹿か、おまえは？　この銀の直線が終わる訳ねだろうがよ。俺と俺の大事にしていたものが終わんねぇかな、と思ってるに決まってるだろうが。でも、どっちも終わんねぇんだよね。やれんよ。

　これもまた、俗なものから始まって精神性の内奥へと進んでいく町田話法なのだが、ここで中也の「汚れつちまつた悲しみ」を「大事な大事な一着しかない衣服」の汚れ、とパラフレーズしているのはユニークだ。ところで、「汚れつちまつた悲しみ」とは「悲しみ」が汚れてしまった、ということだろうか。それとも自分が汚れてしまった悲しみだろうか。町田康は疑いなく、「悲しみ」が汚れた、と解釈している。その「悲しみ」に「死が、無数の銀の直線の形をとって垂直に降る」というのは優れて町田的な比喩だ。このイメージは、夙に初期中編小説「人生の聖」（『きれぎれ』文藝春秋社、二〇〇〇年、所収）の末尾に鮮やかに描かれていた。

世の中すべての因果の曲線は、真っ直ぐな銀の直線となってものすごいスピードで昇天し始め、世界は真っ直ぐな銀線で埋め尽くされた。

「因果の曲線」である世の中の紆余曲折がすべて「銀の直線」と化して世界を埋め尽くす、という壮麗なイメージだが、実はこの直線は「死」の表象であることが、『残響』であらためて明かされたことになる。「人生の聖」の末尾では、これら無数の銀の直線はやがて「銀の円柱」と化して「俺の顔面」を打ち砕き、やがて「俺」の意識は消滅していく。なんともダイナミックかつグルーヴィーなエンディングというしかない。町田康はこの悲劇的かつ破壊的イメージを中原中也の「悲しみ」に重ねて歌っているのである。

　　正午

　　　　丸ビル風景

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取の午休み、ぶらりぶらりと手を振つて

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口

空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる

ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくる

　わ

大きいビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

　上空（おそらく丸ビルの上階あるいは屋上）から地上を見下ろす（まるで死者のような）視点から都市風景を描く、憂鬱な中にもどこか晴れ晴れとした明るさ（「空はひろびろ薄曇り」）がほの見えている不思議な作品である。かつて私は（前掲拙著の中で）この〈冥府〉めいた薄明の中に、来るべき（もちろん実現しなかった）「第三詩集」の萌芽を指摘したことがある。薄明に包まれた情景を今や死者と化した詩人が見下ろし描写しているのだ、と。

　町田康はこの詩に次のような言葉＝歌をよせている。

　あることをすればあることが起きる。その貧しい関数が悲しい。

　あることを起こそうとして、ならば、あることをすべきなのにそれをやらない、っていうか、できない者がいることも悲しい。

　その者たちは、いつまで経っても起きてしまったあることであることである。あるある、言って喜んでいるウヒャヒャ人である。

　また、あることがなされたために、あることが起きることによって、そのそもそもなされたあることが起きたあることに変換されてなくなってしまうのも悲しい。

　中天に固定したいよね。

　けれどもなくなっていく。そのことが悲しいのは、私がいつもその、そもそものあることを起こす、響かせる側にいるからなんだけどね。けど、すぐ死ぬからね。起きるあることの側は自分がなぜ起きたかなんて絶対知らないしね。つまり、なにもかもがどうでもいい、っていうことになってしまうんだよね。死ぬよね。っていうか、もう俺、大分前から残響だけどね。

　一見、詩「正午」と関係のない独り言のような韜晦的語りだが、これもまた町田話法の一つ。「あること」と「起きること」との因果関係そのものを「悲しい」こととして嘆いているのだが、では、なぜ詩「正午」に町田康は因果関係の悲しさを読み取ったのか。おそらく、昭和初期の大都市会社員生活の不条理と虚無を読み取った中也の心情に、今も変わらぬ俗人たちの生活感に滲んでいる一種の宿命のようなものを見出したからだろう。そしてまた、わずかな束の間の休息を促す「サイレン」の響きに自らの与える安らぎの虚しさを読み取ったからだろう。「中天に固定したいよね」とは、生活に流されていく人々の安定への悲願を代弁しているようで、同時にその不可能性を宣言しているようでもある。ここで町田康自身が「あることを起こす、響かせる側」にいることに留意するならば、そうした無常な人生にある種の出来事を引き起こす「表現者」としての自恃を表明していることが分かる。ただし、それも「すぐ死ぬからね」との留保つきであるのだが。

　中原中也が晩年に書いた「正午」の中に、町田康は微かな死の予感を嗅ぎ取っている。「すぐ死ぬからね」は、現在を生きる詩人小説家である町田康自身の人生観が、晩年の中也と共鳴した、間主体的独言といえるのではないだろうか。「大分前から残響だけどね」もまた、死後の生とも呼ぶべき〈冥府〉を生きる詩人の告白として、二人の詩人の呟きが化合したハーモニーを奏でている、とはいえないだろうか。だとすれば、町田康が中原中也との対話を企図した本に『残響』という表題を与えたのも、〈冥府〉を生きる表現者としての自己意識を中原中也の晩年に見出し、そこに深い共鳴を覚えたためと考えられる。〈死〉の側から〈生〉を見る、という詩人の眼差しへの共鳴である。