故郷喪失／故郷創出 詩人の場合
（「樹林」２０１５年１２月号）
山田兼士
多くの日本人が生まれた土地に育ち生きて死んでいった、近代以前の時代において、〈故郷〉が文学的主題になることはほとんどなかった。万葉集の防人の歌や遣唐使の望郷の歌などはあくまで例外だし、旅にあけくれた西行や芭蕉にも望郷という概念は当てはまらない。〈故郷〉が文学的主題になるのは、やはり人の移動が自由かつ簡便になり都市に人口が集中する明治以降のことだろう。
「兎追ひし彼の山」で始まる「故郷」が尋常小学唱歌（第六学年用）として発表されたのは大正三年（一九一四）のこと。この頃には〈故郷〉は文学的トポスとして広く普及していたようだ。もちろん、それ以前から多くの文学者たちが〈故郷〉を重要なモチーフとして取り上げてきた、その結果と見ることができる。詩にかぎって見ても、北原白秋の「思ひ出」、室生犀星の「小景異情」、萩原朔太郎の「郷土望景詩」などがすぐに思い浮かぶ。少し後になるが、中原中也「帰郷」なども〈故郷〉を歌った絶唱だ。そのリリシズムを「短歌的抒情」の最たるものとして厳しく批判したのが戦中戦後の小野十三郎だった。
故郷とは、熊本だとか信州だとか東北のことだと言った奴がある。
私はいつも熊本や信州や東北に向って復讐しているつもりだ。 （「詩論４０」）
金時鐘が小野の『詩論』に出会った時の衝撃を繰り返し語っていることはよく知られているが、ここでは近著『朝鮮と日本に生きる』（岩波新書、二〇一五年）から引いてみよう。金時鐘は、日本に来て間もなく大阪の古本屋「天牛」で『詩論』を入手し、この本が「詩とはこういうものであり、美しいということとはこういうことである、といった私の思い込みを、根底からひっくり返した」と述べ、右に引いた「詩論４０」と続く一節「慰安の欲求としての郷土は郷土に価せず」を引用した上で、「まるで私の心情を見透かしてもいるかのように、私を包んでくれているそこはかとない情感、情念の「故郷」を仮借なく切り捨ててしまっていたのです」と続けていく。
生まれ故郷を命からがら脱出してきたばかりの金時鐘が小野の故郷観に激しく動揺し、その後、自らの日本語を鍛え独自の文学言語へと昇華していく過程は、本稿で取り上げる主題ではない（細見和之が繰り返し論じている主題であり、ここでは『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』岩波書店、二〇一一年、を挙げておく）。だが、この経験が決して金時鐘ひとりの個人的な出来事に止まるものでないことは、戦後詩の多くの作品を見れば明らかだ。まず小野十三郎自身が『詩論』の実践編とも呼ぶべき数々の詩集を世に問うことで、戦後詩を牽引していく。その経緯については拙著『小野十三郎論 詩と詩論の対話』（砂子屋書房、二〇〇四年）で詳しく論じたのでここでは繰り返さないが、『大海辺』『抒情詩集』『火呑む欅』『重油富士』といった詩集が「歌と逆に歌に」の実践をきわめて真摯にかつスリリングに展開した事実だけは強調しておきたい。「歌と逆に歌に」とは、〈故郷〉への「復讐」とその延長線上にある〈故郷〉創出への意志表明とも取れるのではないか。実際、ごく若い頃の短い期間を東京で過ごした後に大阪に帰郷して以降、小野は大阪を離れることなく現代詩を牽引し続け、一種独特の大阪の文化風土創成に尽力したのだった。
詩誌「現代詩手帖」二〇一五年八月号の特集「戦後７０年、痛みのアーカイヴ」には、敗戦によって「外地」から引き揚げてきた詩人たちの体験が語られていて、あらためて「故郷喪失者」の文学のことを考えさせられた。財部鳥子、新藤涼子、鈴木ユリイカ、境節、中田啓二、川上明日夫といった詩人たちである。いずれも幼少期を満州や朝鮮や台湾といった「外地」で送り、敗戦によって〈故郷〉を追われた人たちだ。それぞれに過酷な体験と辛い記憶に苛まれつつその後の長い人生を歩んできた。その体験の一部はいちはやく詩に刻まれた場合もあれば、胸の内深く抱きつつ別のかたちで表現される場合もあった。ここでは、川上明日夫の詩とエッセイを紹介しておきたい。
川上明日夫は一九四〇年「満州国本渓湖市」に生まれ五歳まで育ち、一九四六年七月、舞鶴港に「上陸」した。「内地への初めての旅」は「九八〇名の女子供ばかり」によるものだったという。
私の詩作は、旅とこの無い故郷を求めての創造行為だったようです。ふる里が欲しい。水が隔てる外地と内地、国境という水のある境目。境目の持つ意味。黄泉平坂。生際と死際からの風に吹かれて宛てもなく問い訊ねつづけるそんな、ふる里行脚でした。 （「内地という異郷・外地という故郷」より）
独自の抒情性と古典的叙法で知られるこの詩人が満州出身であることは知っていたが、これまで十冊以上を数える詩集の根底にある〈故郷喪失者〉の悲哀が想像以上に深いものであることに、あらためて気づかされた。「無い故郷」を求める「ふる里行脚」は、川上自身によって次のように敷衍される。
私は、喪いふる里をどう訊ねるか。故郷喪失という根無し草の漂流と定住と彷徨、風景の中の他所者意識と旅。 （同右）
福井に定住して広部英一、岡崎純、南信雄といった地元に深く根を下ろす詩人たちと詩誌「木立ち」を創刊、継続してきた川上は、「他所者意識」に苛まれながら〈故郷〉創出に力を注いできた。長い詩作と思索の後に書かれたこの短いエッセイには、〈故郷喪失〉者の悲哀とともに、〈故郷創出〉に尽してきたことへの自負が少なからずこめられているように思う。
ふる里の持つ意識とは、創作のためのアイデンティティのようなものであった。抒情詩とは風景の中にふる里を読む思想である。あるいは詩を書くことでふる里へ帰る、縄文に入る思想になる。外地から内地へ。「越前 道守荘 杜郷 狐川」、詩を書くことで私はふる里を創ってきた。七十年たった今も「尋ね人の時間」を生きている。 （同右）
五歳で引き揚げてきた川上の故郷体験は、二十代で引き揚げてきた清岡卓行の体験とも、十代での財部鳥子とも明らかに異なる。具体的な〈故郷〉の記憶や印象が希薄なままに根こそぎ〈故郷〉を奪われた、いわば先験的デラシネなのである。だからこそ、〈故郷〉は〈幻境〉として深く抒情の奥に沈められるしかなかった。「風景の中にふる里を読む思想」としての「抒情詩」とはそういうことだ。
宿帳のふるい日付けに雨を聴いている
濡れていると そこに
いない人の影も
そっと さきの世の傘をさしてくれた
おもいでが また 孤島のようにふるえている
耳のすがたの濃いひです （「火影舟」より、「現代詩手帖」二〇一五年八月号）
具体的に郷愁や望郷が歌われているわけではない。だが、水墨画のように淡いモノクロのイメージと、微かなビブラートのような音楽的情感の中に、そこはかとなくノスタルジックな情緒が感得されるのではないだろうか。「孤島」とは詩人の〈幻境＝原郷〉にほかならない。
「外地」からの引揚者ということなら、やはり石原吉郎を挙げないわけにはいかないだろう。石原の作品と生涯については、最近刊行された細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』（中央公論新社、二〇一五年）を参照してもらうとして、ここでは主著『望郷と海』の表題に用いられている「望郷」という概念について少し触れておきたい。
よく知られているように、石原吉郎は、敗戦時（三十歳）にソ連軍に連行され、「戦犯」として重労働二十五年の判決を受け、八年間のシベリア抑留を経て一九五三年、スターリンの死による「特赦」によって帰国する。翌一九五四年、詩「夜の招待」が投稿雑誌「文章倶楽部」に特選で掲載（選者は鮎川信夫と谷川俊太郎）されたのを契機に本格的に詩人としての活動を開始する。一九六四年、詩集『サンチョ・パンサの帰郷』によりＨ氏賞を受けた後、少しずつシベリア抑留体験をエッセイのかたちで発表し、一九七三年（五十八歳）『望郷と海』を刊行（歴程賞受賞）、一九七七年、六十二歳で死去している。
波瀾万丈の生涯を送った石原吉郎だが、少なくとも一九六〇年代まで、読者はその波瀾万丈ぶりを知らずに石原の作品を読んでいたのだった。不思議なメタファーとレトリックの背景を知らないままに、多くの詩人や評論家がその新奇な作風を評価したのだ。当時を振り返って、谷川俊太郎は次のように述べている。
他の投稿詩に比べて、それが際立って詩としか呼びようのない質感をもっていたのを今でも覚えている。そのころはまだ石原さんのシベリア体験と帰国後の体験については何も知らなかった。
（「独特な質感」より、「びーぐる」二八号、二〇一五年）
これは「夜の招待」についての回想だが、ほぼ同じ状態は第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』刊行後まで持続している。
やがて私は声もなく
石女たちの庭へむかえられ
おなじく 声もなく
一本の植物と化して
領土の壊滅のうえへ
たしかな影をおくであろう （「サンチョ・パンサの帰郷」より）
シベリア抑留からの帰還が決して幸福の端緒ではなかったこと（「石女たちの庭へむかえられ」）、〈故郷〉とのどうしようもない異和をかかえこんだ自己を認識せざるを得なかったこと（「一本の植物と化して」）、そしてその〈故郷〉が「壊滅」状態にあったこと。何重にも折り重なった〈故郷喪失〉感こそが「詩としか呼びようのない質感」の正体だったのだ。無からの〈故郷創出〉を余儀なくされた帰還者の労苦がここから始まるのである。
これもまた戦後七十年の今年になって刊行された重要な一冊に（しかも奥付の刊行日は「八月十五日」と記されている）本多寿『詩の中の戦争と風土 宮崎の光と影』がある。宮崎にゆかりのある詩人十一人を論じた本だが、その中に私にとって未知の詩人「南邦和」があった。
南邦和は朝鮮半島から十三歳の時に、父親の「ふるさと」である宮崎県日南宮浦に引き揚げてきた。二つの土地を南は「原郷」と「故郷」と名付け、どちらにも違和感を抱きながら生きてきたという。本多寿は、南の帰郷者としての「異質」さを、小野十三郎の前掲の「詩論」中にある「慰安の欲求としての郷土は郷土に値せず」を引用し、他所者としての苦難を「激しい飢餓」と表現するとともに「敢えて言えば、飢餓そのものが「ふるさと」かもしれない」と評している。慰安であれ飢餓であれ、ともかく故郷喪失者は新たな故郷を創出するしかないのだ。本多の著作から、南の作品の一部を紹介しよう。
告発する
空を樹木を花々を鳥たちを
小さなものたちの不逞の企らみを
ものいわぬものたちの生命の軽さを
額縁のなかの山をサングラスの奥の湖を
水のない川をたぎる海を爆発する雲を
地平線に沈む悔恨の色彩を
水平線の真下の断絶を （「告発のバラード」より）
人や社会のみならず植物や山河までを「告発」せざるを得ないルサンチマンが、明確なメタファーを伴うことで激しい告発になっている。「告発はしない」と宣言した石原吉郎とは正反対のように見えるが、実は秘められた違和感の強さにおいてほぼ同等のようにも考えられる。「原郷」と「故郷」をともに否定することであり得べき〈幻境〉を求めるところに〈詩〉が見出されていくのである。
金時鐘、川上明日夫、石原吉郎、南邦和と、それぞれ事情は異なるにせよ〈故郷〉を喪失することで自ら新たに〈故郷〉を創出するしかなかった詩人たちの内実を垣間見てきたわけだが、後天的に創出される〈故郷〉とはほとんど〈幻境〉と同義であるかもしれない。なぜなら、それはある意味で時系列の反転ともいえる現象だからだ。だが、この反転は、ひとり「引揚者」だけのものではないだろう。敗戦後に日本中で起こった都市化と産業化と人工化、情報化の波の中で、緩やかに、だが確実に、私たち現代人がみな故郷喪失者となり、それゆえ〈故郷＝幻境〉創出者にならざるを得なかったのではないだろうか。谷川雁の「サークル村」などはその典型的な実験例だったかもしれない。あるいは、最初から東京に生まれ育った谷川俊太郎のように、敢えて宇宙に故郷を求めるかのようなコスモポリタニズムもまた、現代人全般に共通する〈幻境〉思慕なのかもしれない。〈故郷喪失〉と〈故郷創出〉の弁証法はさらに私たち一般の問題であるかもしれないのだ。