画期的な《死の島》論――岩津航『死の島からの旅』

（「年報・福永武彦の世界」第５号、2020年3月21日）

山田兼士

　岩津航の著書『死の島からの旅』（世界思想社、二〇一二年）は、現在（二〇一九年三月）までのところ、福永武彦『死の島』を論じた唯一の専門研究書(モノグラフィー)である。福永についての研究書そのものは必ずしも少ないわけではない。この代表長編についても、本格的に取り組んだ論考は、菅野昭正『小説の現在』（中央公論社、一九七四年）所収の「純粋と豊穣――福永武彦『死の島』」を嚆矢として、これまでにもいくらか書かれてきた。だが、『死の島』の全体像を十分な紙幅によって描き出した論考（それはゆうに単行本一冊にならざるを得ない）はこれまで他にない。

　少なからぬ福永武彦論が存在するにもかかわらず、昭和文学を代表する問題作が十分に論じられてこなかったことにはおもに二つの理由がある。一つには、作品の刊行状況自体が決して恵まれたものでなかったこと。一九七六年に出た新潮文庫版は長らく絶版の状況が続き、『福永武彦全集』第一〇巻、一一巻（新潮社、一九八八年）で読むしかないという状態が続いていた。もっとも、講談社文芸文庫版『死の島』上・下巻が二〇一三年に出たことによって、現状はかなり改善されている。もう一つの理由は、作品自体が複雑である意味での難解さに溢れているために、一般読者にとってはもちろんのこと、専門的な研究者にとっても容易には近づき難い作品であることが考えられる。私自身、長い間『死の島』についての本格的論考をものしようと思いつつ果たせぬまま現在に至っている。

　では、『死の島』の論じ難さとはどこにあるのか。その要因としてまず考えられるのは、本作が計七つものストーリーから成っているという、作品構造の複雑さだろう。現在と過去が複雑に絡み合い、しかも過去の章が時系列にそってではなく前後に入り乱れるかたちで展開していく。さらに、視点人物が一応の主人公と見るべき相馬鼎だけでなく、原爆の被爆者である萌木素子、それに最初は不可思議な登場人物としか見えない「或る男」と、計三名に即して語られていく。これに加えて、随時、相馬鼎が書きつつある三篇の小説が挿入されている。もっとも、こうした複雑さは現代文学ではしばしば見られることだし、熱心な読者にとってはかえって魅力でもあるわけだが、いざ論じるとなると途方もない手続きと方法が必要になることは必至だし、下手をするとかえって分かり難くするばかりかもしれない。

　そういう複雑であり難解でもある、だが大いなる魅力に溢れた名作でもある『死の島』に、岩津航はどのように挑んでいるのか。その方法は、いたってシンプルかつ正攻法なもので、要するに丁寧に緻密に読むことと、先行作品に可能な限り直接当たる、ということだ。本書は序章、第一部（第一章〜第三章）、第二部（第四章〜第六章）、終章から成り、第一部では「小説の方法」「小説家の形成」「孤独と深淵」（『死の島』以前の作品形成）が、第二部では「「死の島」の北方性」（おもにベックリーンの絵画とシベリウスの音楽）、「橋と艀」（イメージ分析）「死の色としての白」が論じられている。方法論的にいえば、第一部は生成研究、第二部はテーマ批評に大別されるだろう。第一部では、まず『死の島』の問題点や作品構造が示された後、ロートレアモン、ボードレール、マラルメといった福永文学の源泉と見るべきフランス詩人たちとの関連や、ゴーギャンの絵画やジッド、ジョイス、ビュトール、フォークナーといった二〇世紀（前衛）小説からの影響が細やかに示され、さらに福永自身の『塔』『告別』『深淵』といった初期作品群への言及（ここでもボードレールは重要な意味をもつ）によって「プレ『死の島』」作品の形成過程が分析されている。ここまではいわば本丸に接近するための準備作業とでも呼ぶべき論述だが、それぞれの背景にある膨大な作品群を著者は丁寧に読み解くことで（あたかも福永の読書体験をそのまま追体験するかのように）、複雑に入り組んだ作品生成過程を鮮やかに示してくれる。

　そうした準備作業を終えた後にくるのが「死の島というトポス」と第された第二部で、ここからいよいよ著者の論述は本質的かつ深遠な作品内部に入っていく。著者はまず、『死の島』に引用された三つの神話――ギリシャ神話のカロンの艀、北方神話『カレワラ』の「トゥオネラの白鳥」、それに『古事記』の妣の国――を解析しつつ『死の島』の世界観を解明していく。カロンの艀はベックリーンの絵画「死の島」のトポスを代表する表象であり、萌木素子が描いた絵画に通じる主題と画風を示している。これに対して、「トゥオネラの白鳥」はフィンランドの作曲家シベリウスの音楽作品だが、その背景には北欧神話における死のイメージが潜在している。そしてこの両者、ベックリーンとシベリウスには、ともに「北方性」という共通項がある。さらにこの北方性というテーマは、『古事記』の妣の国にも通じることを『死の島』からの引用「われわれの魂がそこから生れてきた古里のような感じ」や「死の国であると共に、人間が生れる以前の自然そのもの」によって示し、総じて神話という無意識的トポスを明示的にとらえようとする作家の企みを、著者は次第に明らかにしていく。ここでは、作品中に萌木素子によって語られる浦上玉堂の日本画「雨後絶景図」についても細密な考察が行われていて、「死者の国へ赴きながらも、この世に戻ってくる道を確保しておく、という相馬に課せられた任務を象徴している」と、「橋」が相馬鼎の死との（往還可能な）関わりを象徴するのに対して、萌木素子の死との関わりは一方通行である死への舟（＝艀）によって象徴されることを著者が解明する一節は、本書の白眉と呼んで差し支えがないだろう。

　本書には優れたイメージ分析が数多くあるのだが、ここでは一例だけを挙げておく。第二部第六章のうち「２　死の色としての白」の中で、著者は、相馬鼎が広島に向かう夜汽車の中で自身の創作ノートを通読する場面で、そのノートが「三分の二で終わっていて、残り三分の一が空白であるということ」に注目し、その空白に秘められた意義を考察する。これに、萌木素子が下宿先の子供のために描いた絵本『ゲンちゃんのぼうけん』もまた全体の三分の一が余白であることを重ね、ここに「カロンの船出」のイメージを読むことで「三分の一の余白は、素子の死の空白である」と解釈する。この解釈が『死の島』全体において担う意味について、著者は次のように論述する。

　相馬のノートや素子の絵本の残り三分の一が空白であることと、昼過ぎから雪が振り続けるということの間には、白を媒介とした完成性を見出すことができる。白いページはそのまま広島＝死の島の雪景色に繋がり、「或る男」の彷徨する東京の大雪に合流し、素子の「内面Ｍ」（略）における空白の数ページと呼応する（略）。それはまた、自殺を決意した数日前から、素子がアトリエにある未完作品のカンヴァスをすべて白く塗り潰した行為とも響き合っている。素子はそれを「白く塗られた墓たち」と呼ぶ（略）。『死の島』において、雪がもたらす白の平面は、そのまま死の色調なのである。内的独白の中断による空白の数ページは、一面に広がる雪原でもあるのだ。

　鼎と素子の共に「三分の一」が余白のまま残された作品、最終場面のイメージを決定づける雪の白、白く塗られたカンヴァス、それに素子の内面の告白である「内面」の章に残された数ページの空白、さらには素子の「死」の表象である「白イ太陽」、それらをすべて統合することで、著者は「死の色としての白」の象徴を鮮やかに描き出している。さらに著者は、別の項（「第二章　小説家の形成」）で、「この小説が物語るわずか三七日後の一九五四年三月一日に、ビキニ環礁でのアメリカ合衆国による水爆実験で第五福竜丸の乗組員が被爆した、という事実」に注目し、相馬鼎が一月二三日の悪夢で見た光景が（広島の）「原爆」ではなく「水爆」とされていることから、鼎の悪夢が過去の原爆ではなく近未来における水爆の予知だった、と推察している。ここに、過去において原爆による被爆体験をもつ萌木素子と、未来における水爆を予知する相馬鼎の二人をいわば日本人の代表とすることで、「この歴史的な重みとは、『死の島』の主題を考えれば、被爆の記憶を指すのだと思われるが、さらに大きな文脈で言えば、戦争体験である。これを日本人全体の魂の傷と見なすことで、初めて福永武彦は原爆を小説に書くことができた」と、著者は書き進めている。この論点の背後には、福永自身が一九七一年に「作者の言葉」として発表した文章中の「それ（原爆という社会的問題）は日本人としての魂の問題と結びつく」という発言があるのだろう。

　最後に、『死の島』解釈において最も本質的な問題と考えられる、相馬鼎の作家としての自己確立について考えておきたい。幾度もの逡巡と躊躇の結果、二人の女を死から救えなかった相馬鼎は、「終章・目覚め」において作家としての覚醒を独白するのだが、この章が意味することについて、古くから、覚醒し成長した相馬鼎が書き上げた作品こそがこの『死の島』にほかならない、という解釈があることに対して、岩津航はほぼ全面的に異議を唱えている。本書冒頭近くで、著者は明確に相馬＝福永という図式を否定しているのだ。

最もよく見られるのが、相馬鼎がやがて書くはずの小説と、福永武彦の『死の島』という小説を、混同して論じるものである。加賀乙彦は「相馬鼎の目指した小説［略］は、『死の島』において十全に果されている」とまで断言している。（中略）しかし、ちょうど『失われた時を求めて』の主人公が『失われた時を求めて』を書かなかった――主人公はこの小説の最後で、ようやく「作品が書けるようになるという確信を抱くに至るのみで、執筆にはかからない――という意味で、相馬鼎は『死の島』を書きはしないだろう。むしろ、相馬が作中で展開する小説論がそのまま通用しないところにこそ、『死の島』の特徴があることを見なければならない。

　いかにも相馬鼎には気の毒な解釈というしかないが、もちろん著者は、無根拠にこう断じているわけではない。著者によれば、一九五四年という物語の時代設定にはその当時の福永自身の限界と、「それを乗り越えたより大きな視点とが、混在している」のであり、「一九五〇年代当時の福永の限界が相馬鼎という人物に投影され、その限界を後年の作家が冷静に見つめている」ということになる。独創的でありかつ非常に説得力のある解釈だ。

　しかし、この解釈には一つ大きな問題があるように、私には思われてならない。一九五四年といえば、福永は三六歳。相馬より一〇歳ほど年長だ。すでに『風土』『草の花』『塔』などを完成し作家として確実に成果を上げつつあった時期で、まだ一冊の作品も完成していない作家志望の相馬青年とはまったく立場が異なる。相馬鼎がなんらかの意味で福永の過去を投影していると考えるなら、むしろさらに一〇年遡って、『風土』や『独身者』を書きながら思うように進まず焦燥していた青年期の自己像が相馬に反映している、とは考えられないだろうか。もちろん、そうすると今度は時代との齟齬が生じてくる。相馬青年の物語は敗戦八年後だが、福永青年は戦時中を生きていた。

　この齟齬については、福永文学全体の自伝的要素と重ねて再考する必要があると考えている。こうした齟齬は、いわば福永文学における意図的な混同（あるいは化合）と考えられるのだ。結論的な概要だけ述べるなら、相馬が「覚醒」するのは一〇年後ではなく二〇年後のことで、その間に相馬＝福永は数々の長編短編を書き上げて最後についに『死の島』に至った。「終章・目覚め」には「それはいつのことだったのか」と書かれ、「幾日か幾月か幾年が経った後のことだったか」と、意図的に時間が曖昧にされている。だとすれば、相馬の「覚醒」は一〇年後でも二〇年後でもかまわないことになる。要するに、やはり相馬鼎は『死の島』を書いたのだ、という解釈を少なくとも否定し切ることはできない。

　とはいえ、こうした作家／作中人物の関係についての最終的な結論というものはないだろう。解釈の可能性をどこに開いていくか、という問題が重要なのであって、私見との食い違いは本書の価値と魅力をいささかも減ずるものではない。今後のさらなる議論に拠る福永研究の深化を期待して、本稿を閉じたい。