翻訳詩の楽しみ
――「ミラボー橋」から『パリの憂愁』へ
（「PO」140号、2011年春）
山田兼士
詩の翻訳は不可能とする俗説を私は信じない。そもそも多くの詩が無意識世界から言語への翻訳である以上、一言語から他言語への翻訳のみを否定する態度はどう見ても公平を欠くというものだろう。詩とは言語を越えたなにものかをあえて言語に翻訳する行為、という定義（？）を私はわりと気に入っている。詩の翻訳を不可能とする人は詩そのものの可能性を否定していることに気づくべきだろう。
とはいえ、特に欧米語と日本語のように音韻体系も文法構造もまるで異なる二言語間での翻訳行為に伴う困難は軽視されるべきではない。特に音声面に関してはほとんど絶望的というべきだし、その一点に関してのみならば「翻訳不可能」説にも一理あると認めざるを得ない。ならば問い直したいのだが、詩とは果たして音声だけで成り立っているものなのか。いうまでもなく、言語を構成する二大要素は「音声」と｢意味｣であり、詩の場合、これに「イメージ」を加えて三大要素と見るのが妥当だろう。特に、近代以後の詩では音声以上に意味とイメージの占める比率が高くなっている。そこで詩の翻訳の出来不出来とは、音声、意味、イメージをどの程度まで（近似値的に）他言語に移植できるかにかかっているといえるだろう。
貧しいながら多少の翻訳経験をもつ者の立場からいうなら、これら三要素のすべてを百パーセント満たす翻訳は不可能だ。例えば、意味はできるだけ百パーセントに近づける努力を前提として、イメージについては七、八十パーセントほどを目標とし、音声については（一行あたりの長さの調整や無理のない程度の韻律について）少しでも原詩のしらべが再現できるように（場合によっては意味やイメージを多少犠牲にしてでも）工夫する、といった意志決定が必要になる。具体例を挙げてみよう。アポリネールの「ミラボー橋」（『アルコール』所収）冒頭部分（拙著『百年のフランス詩』より）。
Sous le pont
Mirabeau coule la Seine
Et nos
amours
Faut-il qu’il m’en souvienne
La joie venait
toujours après la peine
Vienne la nuit
sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
ここはミラボー 忘れ得ぬ
二人の
恋を映すセーヌ
きみの姿 もう見えぬ
鐘よ鳴れ 日々は
過ぎ去り ぼくひとり
レオ・フェレのシャンソンでも馴染みのこの詩を｢歌える｣訳詩にするために、ここではいくぶん意味とイメージを「犠牲に」した。堀口大学訳「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ」では歌えないからだ。続く「われらの恋が流れる／わたしは思い出す／悩みのあとには楽しみが来ると」（堀口訳）もまた意味をほぼ忠実に移し得ているが（より正確には「われらの恋を／思い出すべきだろうか／喜びはいつも苦しみの後にやって来た」）、一行十音節（二行目と三行目は計十音節）を基調とする原詩のしらべは全く失なわれている。そこで拙訳では、リズム重視のため七音五音を基調とし、あわせて｢Seine｣「souvienne」「peine」の脚韻を「得ぬ」「セーヌ」「見えぬ」で再現してみた（これなら歌える）。また、原詩はフランス文学史上初めて句読点なしで書かれた実験作であるため三行目の末尾に疑問符が省かれているが、これが疑問文であることは文法上明らかで、その疑問形が過去への追憶と悔恨を示しているのだから、「きみの姿 もう見えぬ」という拙訳は原詩の含意を反映しているといえるのではないか。また、次のリフレイン部分（原詩は各行七音節）の堀口訳は｢日も暮れよ 鐘も鳴れ／月日は流れ わたしは残る」となっているが、拙訳では「日も暮れよ」（直訳では「夜よ来い」）を｢犠牲に｣して音数を五・七・五にした。この｢鐘｣が時を告げる（夜の訪れを告げる）鐘であることは文脈上明らかと判断したためでもある。もちろん冒頭「ここはミラボー」はタイトルから橋であることが明瞭なので「橋」を省いている。
以上のように、拙訳「ミラボー橋」では敢えて意味をある程度犠牲にして音（しらべ）の移植を試みたわけだが、このような訳詩（訳詞ではなく）はそういつもできるわけではない。音楽的要素が特に強い詩の場合は例外で、多くの場合には意味とイメージの正確さをまず優先すべきで、音はおおかた犠牲にせざるを得ない。特に音数律や脚韻についてはきわめて困難だ。しかし、だからといって初めから諦めていいわけでもない。訳者としては出来る範囲での最大限の努力は惜しむべきでないだろう。そのささやかな実例をもう一つ挙げてみる。拙詩「マリ・イン・ザ・シティ」（詩集『微光と煙』所収）に引用したボードレール「旅への誘い」の冒頭部分。
愛し子よ 妹よ
ふと浮かぶ 楽しさよ
そこで一緒に 暮らせるのなら
好きなだけ 愛し合い
愛しつつ 死んでもいい
きみによく似た その国でなら！
原詩では五音、五音、七音と続く冒頭三行をそれぞれ倍にして五五、五五、七七の定型にしてみた。続く三行も同様。さらに「aabccb」の脚韻構成を日本語でも再現した。各行の音数が比較的少ない詩なので、それなりに韻が響くのではないだろうか。しかも、この程度の音数的余裕（原詩のちょうど二倍）があれば、意味を犠牲にする必要もあまりなくなる。もちろん、音数が倍になっているから、これで歌うことは（デュパルクの歌曲はいうまでもなくフェレのシャンソンでも）不可能だ。その代わりに、この訳詩で｢歌える」日本語の歌を作曲することは可能だろう。新しい日本語シャンソンの可能性もあるわけだ。
もう一つ、定型ながら自由詩に近い例としてランボーの「永遠」冒頭を挙げてみよう（『百年のフランス詩』より）。
見つかった
何が？ ―〈永遠〉
太陽と一緒に行った
海のことだよ
原詩は歌（シャンソン）を思わせる各行五音節で脚韻はない。すでに多くの翻訳が出ている名作だが、拙訳では五音七音を組み合わせて「歌」に近づけてみた。一見しただけでは分らないかもしれないが、三行目の｢太陽と」で改行して読むと「五七五七七」つまり短歌と同じ音数律であることが分る。これもやはり、原詩とはリズムを変えながら日本語としてのリズムを整えた翻訳といえるだろう。要するに、歌の要素の強い詩句は日本語としても「歌える」ように訳したい、という一例である。
以上はいずれも韻文詩の例だが、散文詩となると事情は一変する。ここでもやはりボードレールが特別な位置にあることを強調しなければならない。韻文で近代最後の傑作『悪の華』を刊行した直後に現代最初の問題作『パリの憂愁』を散文で書いた詩人であるからだ。その散文詩五十篇は、生前出版こそかなわなかったものの、最晩年に目次を書き記してくれたおかげで、没後二年目にあたる一八六九年にほぼ完全なかたちで刊行されることになった。ボードレール自身が「脚韻もリズムもなく音楽的」（「アルセーヌ・ウセーへの序文」）と書いているように、あらゆる韻文の拘束から逃れて散文そのもので詩を成立させようという画期的な試みである。その後、いくつかの紆余曲折はあったものの、現代詩の大部分が散文詩か自由詩（散文詩から派生して十九世紀末にラフォルグらによって確立された詩型）で書かれるようになった現在、現代詩の決定的出発点としての位置はゆるぎないものと考えられる。
さて、その翻訳についてだが、山村暮鳥の抄訳を嚆矢とし、三好達治、福永武彦、菅野昭正、阿部良雄、渡辺邦彦など、すでに数種の全訳があるとはいえ、『悪の華』全訳と比較すればごく僅かに止まっているのが現状だ。このうち、いくつかはかなり昔の訳であって、日本語による現代詩として読むにはいささか賞味期限切れの感がある。また、翻訳には訳者の解釈が全面的に表れるので、唯一絶対の正解というのはない。阿部良雄訳などは、詳細な註解と相俟って、正確無比の立派な翻訳だが、現代詩として読むにはかなりの忍耐が必要だろう。そんな中、最新の渡辺邦彦訳（みすず書房、二〇〇六年）は、阿部良雄の労作はじめ近年の（この四半世紀ほどの）研究状況を的確にふまえた上で、より読みやすい訳文を実現していて、おおいに推奨されるべき良訳といえる。ただ、過去の翻訳との差別化を計ったためか、いささか強引な訳題や散文的に流れすぎた文脈などが気になるといえばいえる。もっとも、これは読者の好みによるところも大きいので、読者としては複数の（少なくとも三つぐらいの）テクストから選べることが好ましい。要するに、『パリの憂愁』の翻訳テクストは未だ十分に刊行されているとは言い難い、ということだ。
筆者自身に関していえば、過去に刊行した三冊のボードレール論（『ボードレール《パリの憂愁》論』砂子屋書房、『歌う！ボードレール』同朋舎、『ボードレールの詩学』砂子屋書房）に引用した作品を中心に『パリの憂愁』全訳の計画を立て、四年ほど前に既訳の三十篇ほどを自分のホームページに掲載した（山田兼士の研究室http://homepage2.nifty.com/yamadakenji）。その時には、残り二十篇ほどを一気呵成に翻訳するつもりだったのだが、その後、日本現代詩やフランス歌曲等の仕事が忙しくなり、つい放置したまま現在に至っている。このあたりでそろそろ再開しようかと、あれこれ想を練っているところだ。
阿部訳や渡辺訳には詳細な訳注が付いているので、語義や出典等についてはそちらを見ていただくことにして、私自身としては日本語による現代詩として鑑賞に耐える訳を心がけたい。現代語訳ならぬ現代詩訳を企てている、といってもいい。その際、詩篇ごとに訳注ならぬ短い｢解説」を加えたいと思うが、その解説は、学術研究的成果を背景にしつつも、出来る限り原詩と親密な相における「対話」を交した結果に、いわば「解説」という名の詩論詩に、したいと考えている。現在ＨＰに掲載しているものは途中段階で不十分ではあるが、だいたいの感じは出ていると思うので、一度お読みいただければ幸いである。
ここで、拙ＨＰ掲載のボードレール散文詩から、冒頭の作品「異邦人 L’étranger」を例に挙げて、私なりの「翻訳詩の楽しみ」の一端を書き記してみたい。まず、全文の訳と解説を挙げておく。
――おまえが一番好きなのは誰なんだ、さあ、謎めいた人よ、おまえの父親か、母親か、姉妹かそれとも兄弟か？
――私には父も、母も、姉妹も、兄弟もない。
――友達は？
――あなたは今、私が今日この日まで知らずにいる言葉をつかった。
――おまえの祖国か？
――それがどんな緯度の下に在るものか、私は知らない。
――では美女か？
――女神であり不滅のものなら、よろこんで愛するだろうが。
――金は？
――それは嫌いだ、あなたが神を嫌うように。
――なんだと！ それではいったい、おまえは何が好きなんだ、世にも不思議な異邦人よ？
――私は雲が好きだ……ほら、あそこを……あそこを……過ぎてゆく雲……すばらしい雲が！
〔解説〕
冒頭から、これ以上ないぐらい「散文的」な作品。問いかける《精神》と答える（あるいは答えない）《魂》の対話を描いている。ここでは、あらゆる世俗の価値を否定する《魂》のニヒリズムとともに、身近なものから次第に抽象的なものへと問いを展開する《精神》の戦略性を読み取らなければならない。後出の「世界の外ならどこへでも」と重ねてみれば、この対話構造は明らかだ。最後に、執拗な《精神》に問い詰められて「雲」を好むと告白する《魂》は、今なお止み難い抒情への欲動を「歌って」いる。最後のフレーズ
«J’aime les nuages … les nuages
qui passent …
là-bas … là-bas
… les merveilleux nuages!» は、６・６・４・６の 音節構造になっていて、十二音節（アレクサンドラン）の韻文詩にかぎりなく接近している。散文詩としては例外的な「歌」の顕現だ。
ボードレールにおける《精神esprit》と《魂âme》の対話とは、感覚的な 《憂鬱 mélancolie》から精神的な《憂愁spleen》へと至る「憂愁詩篇」（『悪の華』第一章「憂愁と理想」の末尾二一篇の作品群）生成の過程で次第に確立していったボードレール独自の語法である。その自己内対話がより構造化され対位法的詩学にまで昇華されたところに『パリの憂愁』の散文詩群が成立した、と私は考えている（詳しくは拙著『ボードレール《パリの憂愁》論』砂子屋書房、一九九一年、参照）。その対位法的詩学は、前半と後半の描写におけるコントラストとなって顕現する場合（例えば「二重の部屋」等）もあれば隣接する二作品のコントラストの場合（例えば「鏡」と「港」等）もあり、また「異邦人」や「世界の外ならどこへでも」のように対話のかたちをとることもある。さらに、三声や四声のポリフォニー（例えば「天職」等）もある。だから、｢異邦人｣の対話は詩人自身の《精神》と《魂》の対話として読まなければならない。そうでなければ、この散文がほかならぬ散文詩であることの根拠が（なくなるとはいわないまでも）薄弱になってしまうからだ。
右の訳中で「おまえ」と訳したのはtuで「あなた」はvousだが、フランス語では二人称単数を表すのに、距離を置いた（丁寧な）vousと距離を置かない（親しげな）tuを併用する。詩人の《精神》は旧知の仲である「異邦人」に親しげに（同一人物なのだから）｢tuおまえ｣で話しかけるのだが、《魂》は他人行儀に（他者なのだから）「vousあなた」で応酬する。このずれが詩人の憂愁の一因だ。渡辺邦彦の新訳では、「訳注」に「詩人の自己の魂への問いかけとも読める」としながら、他の読み方の可能性も残そうとしたためか、｢金は？｣への答えを「僕が富を憎むのは、あなたがたが神を憎むのと同じです」としてしまった。もちろんvousは単数の「あなた」と複数の「あなたがた」の両方に用いられるので、これがただちに誤訳ということではない。だが、「あなたがた」と一般化することは、相手の単独性を否定して世間一般の人々を意味することになる。一般人と異邦人との対話、という旧来の解釈を踏襲しているわけだ。だが、この人物は本当に世間一般の俗物だろうか。「神を憎む」ことを前提とされている「vousあなた（がた）」とは（十九世紀のフランス社会において）本当に一般人だろうか。少なくとも私の解釈では「vousあなた」は特定の人物、唯一無二の詩人自身の《精神》でなければならない。そうであればこそ｢神を憎む（嫌う）｣キャラクターも納得がいく。
詩集巻末近くに置かれ「異邦人」と明らかに対をなす「Any where out of
the world 世界の外ならどこへでも」では、紛れもなく「私」（の精神）は｢私の魂｣と対話を繰り広げている。その末尾部分のみを引用しよう。
一言もない。――私の魂は死んだのか？
「するとおまえは、おまえの病の中でしか満足しないほどに麻痺してしまっているのか？ もしそうなら〈死〉のアナロジーというべき国々へ逃げて行こう。――話は決まりだ、哀れな魂よ！ 荷物をまとめてトルネオへ旅立とう。もっと遠く、バルト海の果てまでも行こう。もしできるなら、さらに生から遠く離れよう。極地に住んでもいい。そこでは太陽は斜めに地を掠めるだけで、光と夜の緩やかな交代は多様さを抹殺し、虚無の半身である単調さを増大させる。そこで私達は長く暗黒に浸ることができるだろうし、その間、私達の気晴らしのために、オーロラは時折〈地獄〉の花火の照り返しのようなその薔薇色の光の束を投げてよこすだろう！」
ついに、私の魂は爆発し、さかしくも私にこう叫ぶ。「どこへでも！どこへでも！この世界の外ならば！」
質問者＝精神が最後に応答者＝魂の本音を引き出すのに成功する、というプロットは「異邦人」の場合と同様だ。さらに、問いつめられた異邦人が最後に思わず本音を歌うように、「世界の外」の「私の魂」もまた「N’importe où ! n’importe
où ! pourvu que ce soit hors de ce monde ! どこへでも！どこへでも！この世界の外ならば！」と（ただし絶叫に近いシャウト唱法で）本音を歌うのだ。
以上のように、精神と魂の対話による対位法（的旋律）は『パリの憂愁』全体を貫く構成原理と呼ぶべき詩法であり、全作品を一貫した相において解釈するために必要不可欠な要素である。だからこそはじめて「脚韻もリズムもなく音楽的」（「ウセーへの序文」）であるような「詩的散文の奇跡」（同）が可能になる。もちろん、その詩法は多様に変化することで散文詩集特有の変幻自在さ（ボードレール自身の言葉によれば「曲がりくねったファンタジー」）を保証することはあっても、決して損ねたりはしない。巻頭作品「異邦人」に用いられるtuとvousは、そうした全作品解釈を前提にして訳されなければならないのである。
今挙げたのはほんの一例だが、散文詩の翻訳の場合には韻文詩の場合とまったく異なった態度が必要であることをあらためて痛感せざるを得ない。
音声的形式から（ひとまず）離れることで韻文の拘束を免れた散文詩は、宿命的に大きなアポリアを抱え込むことになった。それは、｢詩とは何か｣あるいは「何が詩なのか」という問いに収斂するような、本質的自己検証を常に余儀なくされるということだ。詩が韻文を否定することは形式を否定することなのだから、散文詩は内容において詩であることを絶えず自己証明し続けなければならない。そのような状態の中では ｢詩｣と「詩学」はほとんど表裏一体だ。したがって、散文詩の翻訳とは、絶えず「何が詩なのか」を自問しつつ「散文」の中に「詩｣と「詩学」を発見する行為でなければならない。
散文詩の翻訳は常に詩と詩学の発見を要請している。もちろん、既成の（ドグマ的な）詩学ではない。多様で変幻自在で自由で流動的な詩学を透視し凝視する努力が（そう、少なくともその努力が）必要とされるのである。その努力を楽しみと感じられることが、散文詩翻訳の必要条件ではないだろうか。長期間にわたって凍結してきた『パリの憂愁』全訳を再開する時期が、どうやら筆者にも訪れつつあるような気がする。