氷川丸幻想

（「交野が原」７７号）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

山田兼士

昨夜の豪雨の余韻のなか、氷川丸の船内は静まりかえっていた。小雨に濡

れるデッキから階段で船室へ。廊下を抜け重い扉を開いて入ったその部屋

はアールデコの装飾が施されマホガニーのテーブルとソファが一九三〇年

代の雰囲気をそのまま伝える「一等喫煙室」だった。ただし今は「禁煙」。

背後からかすかに紫煙が流れてくるのに気づいて振り返ると、長身痩躯の

鳥のような男がパイプをふかしてソファに坐っている。禁煙ですよ……と

声をかけようとして、ふと思い出したのはフランスの詩人の面影。まさか。

――ムッシュウ・コクトオではありませんか、なぜ……

――今からアメリカに向かうのでね、その前に一服と。

――あなたが乗船されたのはプレジデント・クウリッヂ号のはずですが。

――マダム・アヤシに勧められてね、たしかに良い船だね、イカワマル。

一九三六年五月二十二日、チャップリンとコクトオと一匹のクツワムシを

乗せたプレジデント・クウリッヂ号は横浜港からアメリカに向け船出した。

コクトオはクツワムシに「ミクロビュス」という名をつけて旅の間中かわ

いがったという。日記には、虫が夜中に鳴いて眠れなかった、と書いた。

――菊五郎の鏡獅子はどうでしたか。と、声をかけた瞬間、霧笛が鳴り響

いた。窓に駆け寄って外の様子をうかがうと、相変わらず小雨が降り続い

ている。あれは出航の合図だったのかと。振り返ると、そこには誰もいな

い。ブランデー系の甘い香りの紫煙だけが禁煙の札のあたりを漂っている。

夢を見ているような気分でデッキに出て

少し明るくなった空を見上げると

船のかたちをした影が

昔の空のかなたへ

静かに消えて

いった

船酔い気分で陸に上がると、目の前は昨夜泊まったニューグランド・ホテ

ル。コクトオも最後に泊まったホテルだ。寝る前にかすかに感じたブラン

デー系の煙の香りは（禁煙室なのに）詩人の残り香だったのかもしれない。