〈風のアニムス〉と〈水のアニマ〉
山田兼士
（現代詩文庫『日高てる詩集』思潮社、所収）
戦時中から始まる日高てるの長い詩歴について、まずおおまかな輪郭を描いておこう。
一九二〇年（大正九）奈良県大和高田市に生まれた日高てる（本名は乾照子）は、一九四〇年奈良女子師範学校（現在の奈良女子大）卒業後、一九四二年に右原尨らの詩誌「フェニックス」（後に「爐」と改題）に参加。当時から目立った存在との証言はあるものの、この時期の作品は未だに公にされていない。戦後いちはやく活版印刷となった「爐」に掲載した作品群をまとめた第一詩集『めきしこの蕋』を一九四九年に刊行、戦後を代表する女性詩人としての地位を確立した。その前年、福島県に住む草野心平から「ヒタカテルノサク二、三ペンタノム ヘン クサノ」という電報が爐書房宛に届いた、というのは、今でも日高てるが自己紹介代わりに時折披露するエピソードだ。草野心平を｢師｣と仰ぎ自らその継承を担ったことは、詩の｢近代｣を｢現代｣へと繋ぐ結び目として重要な事実である。
その後、小野十三郎、長谷川龍生、宗左近、会田綱雄といった詩人たちと交流を深めながら、詩集『カラス麦』（一九六五年）『その目を閉じることができない』（一九七七年）『hungerの森』（一九七八年）『闇の領分』（一九八一年）刊行と並行して『彷徨の方向』（一九七五年）をはじめとする評論・エッセイで美術や音楽、演劇にも多彩な批評活動を展開した後、新詩集『私の瑠璃の水』を含む総合誌集『日高てる詩集』（一九八八年）を刊行。この間、多くの思想家、画家、建築家、音楽家たちとの交流の中から多くを学び、詩作の幅を広げるとともに多様な作品スタイルを確立した。詩誌では｢爐｣の後を受けた「BLACKPAN」を途中から主宰して継承、現在に至っている。
以上は、私にとっての「日高てる前史」である。私が日高さんの知己を得たのは一九九六年、大阪文学学校講師を務めるようになった時で、日高さんはその頃すでに大ベテランの（最年長）講師であり副校長だった。私が勤務する大学では定年があるのでこれほどのベテラン講師はまずいない。にもかかわらず、およそベテランらしくない好奇心旺盛にして才気煥発、張りのあるお声と黒を基調とするスタイリッシュな優雅さも相俟って、学生たちを魅了し続けていた。以来十五年ほどの間に、朗読会に招かれたり、「BLACKPAN」の合評会に招かれたりということが何度もあって、関西の詩人たちを颯爽と率いる勇姿を目の当たりにしてきた。その人物像をひとことで述べるなら、エレガントでスマートなブラックスワン、といったところだ。そういえば、日高さんの作品には黒を基調とするイメージや闇をモチーフとする作品が非常に多い。
この十五年ほどの間にも日高さんはさらに新しい詩境を求め続け、二〇〇二年には現代詩人会による「先達詩人」の顕彰を受け、さらに二〇〇五年には『今晩は美しゅうございます』を刊行している。卒寿を迎えて現在もなお新作を創造し続ける長大かつ深遠な日高てるの全容は、とてもこの小文で描けるものではない。幸い、初期作品を中心とした作品論としては本書収録の新井豊美さんの文章などがあり、また、『日高てる詩集』（沖積舎）には長谷川龍生による緻密な作品論があり、さらに倉橋健一による厳密な作家論「日高てるをどう読むか」（「樹林」二〇〇二年十一月）もあるので、これらの文章を参考にしつつ、本稿ではおもに最近の日高作品について書いていきたいと思う。
日高てるの今のところ最新詩集である『今晩は美しゅうございます』を読むと、まず、質量ともに圧倒的な存在感にあふれた佇まいに感嘆するしかない。宇宙規模の空間表現があるかと思えばミニマルとしか形容しようのない微細な小宇宙の描写もあり、造形表現に流体表現を重ねた異空間的イメージもあり、といった多彩な表現スタイルが何よりの特徴だ。
十数年という歳月をかけて編まれた重層的な詩集を手短な言葉で要約することなど到底できないが、再読三読しているうちに、ふと〈風のアニムス〉と〈水のアニマ〉という言葉が浮かんだ。まず、風のイメージから見てみよう。まるで異界から（異界へと）吹き抜けるかのような風の描写が、いくつもの作品の中でイメージの固定化を拒絶し運動体としてのポエーシスを促しているかのように読まれる。例をあげるなら、巻頭 「青い島」の冒頭に吹く「涼やかな風」、「豊穣の飢」中の「千年の風」、「淵がない」の「風が軽妙に通り抜ける 舞う」描写、「ポラーノの広場」のいたずらな「風」など、数え切れないほどだ。とりわけ「風の眼差し・旗・旗めかし YOKOHAMA」中で「陸に向って吹」き続ける風のあざやかな描写は印象的だ（この場合、陸とはアニマの象徴だろう）。
このように力動的な風の描写は、初期作品にはあまりなかったものだ。例えば、一九五三年『日本詩人全集』に収録された｢河岸｣に「風はひくく時劫を さ迷ひ／一束のふさもは その黄金の蕋を抱いて 睡る。」とあるように、風は詩作品のメタファーである風景構造をそっと揺することはあっても、決して揺さぶり戦かせるものではなかった。風はむしろ、詩的構造物の堅牢さを強調するためにこそ吹いていたのである。日高作品に強風が吹き始めるのは『私の瑠璃の水』（一九八八年）あたりから、と私は考えている。この詩集の表題作は五篇の長詩から成る大作で、作者自身が「父へのレクイエム」（沖積舎版『日高てる詩集』あとがき）と呼んでいるように、父を彼岸へと届けるための鎮魂の歌である。その「あとがき」の一部を引いてみる。
死後三年、私のなかの父を、私の成長とかかわる母の里、祖母の里をいっしょに歩み、私の地からも遥か南西に望むことのできる、葛城の�T風の森�Uの天と地のあわいから昇天という道行きを終えた。
モダニズム詩から出発し西洋近現代の芸術思潮を経由することでストイックな構築美を造形してきた日高てるが、〈父〉を葬りつつ自らの内なる〈父＝父性〉を確立した経緯を「道行き」として語っている。その道行きが「風の森」という場を必要としていたことは示唆的だ。葛城という地名、飛鳥、二上、畝傍といった大和の地名が全篇にちりばめられているのは、古代の地層から立ち上がった〈風のアニムス〉が詩人の〈巫〉をも呼び起こしたためだろう。初期作品以来この詩人が確立して来た汎世界性に、生来潜在していた神話的〈巫〉性が溶融した時、日高作品はその深まりと広がりをいっそう増幅することになった。
私事にわたって恐縮だが、私が住む大阪府羽曳野市は二上山を挟んでちょうど大和高田市の反対側に位置している。折口信夫『死者の書』でも知られ「中将姫伝説」で名高い二上山は大阪側からは左雄峰に右雌峰の比較的優美な姿で河内平野を睥睨しているのだが、大和側からは逆の並びで、特に大和高田からは雄峰の隆起が猛々しく、まさに「霊峰」にふさわしい威光を放っている。初めて日高さん宅に招かれた際に土蔵（とはいえバーカウンターに応接セットを備えた優雅な空間）の西窓から沈み行く夕日を眺めた時の感動は忘れられない。この空間で日高さんは毎日暮しあれらの作品を物しているのだと、なんだか腑に落ちた気がしたものだ。さらに想像してみるなら、この土蔵（とアトリエ）にかぎらず、生まれた時から大和盆地から伝説の二上山を毎日見て生きてきた日高さんの体内には、この神話の土地の、縄文も弥生も含む古代大和人の血が脈打っているのだ、と。二上の雄峰をアニムスに、雌峰をアニマに見立てたくなるのは私だけだろうか。ちなみに、日高さんの母の生地箸中にある古墳は『古事記』に登場するヤマトトヒモモソヒメの墓と伝えられ、近年では邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかとの推測もされている。もしかしたら日高てるの先祖は古代最大の巫女である卑弥呼に連なるのではないか、などと妄想したくもなる。大阪文学学校の機関誌「樹林」に日高さんが長年連載していた「二上の鞍から」は、おもに大和の古寺古刹仏像をめぐる自在闊達なエッセイで、最近にわかに古寺仏像の魅力に目覚めた私は、時折「樹林」バックナンバーを取り出しては愛読している。いつか近いうちに単行本として刊行されることを願って止まない。
日高てるの大和をめぐってつい話が脱線したが、『日高てる詩集』の「あとがき」の続きをもう少し引いてみる。
さらに振子を大きく振ってみた。私の出生の母の羊水まで、また天地の肇まったであろう水の源まで各々遡ることを自らに希求した。なぜなら、これは私の幼い頃はじめて目にした原風景であり、なおこれからも見るであろう原風景ではあるまいかとおもうからである。
つまり「私の瑠璃の水」とは「羊水」のことなのだ。もちろん、個としてのみの羊水ではない。天地創造以来の「水の源」としての羊水である。この羊水こそが〈水のアニマ〉の正体ではないか。
風のイメージと並んで詩集『今晩は美しゅうございます』に頻出するもう一つの主要イメージである水は、例えば「水は曲がる。」という印象的なフレーズで始まる散文詩「花は首をまわし」や「水の内側」、「幻の水」などに見られるように、生命そのものの喩であるかのような身体感覚に貫かれていて、確固とした存在感を示している。「水にも根というものがあるのだろうか」という存在論的問いかけは、川の流れや「汚い水」のイメージで答えられ、そのことによって生命の奥底を暗示しているかのようだし、特に、「表面あるいは沸騰点を待ちながら」では、風と水との密やかなドラマが凝縮した影像を造形しているようだ。｢かすかな微風」はアニムスのそよぎ、「ほうふつとして盛りあが」る水はアニマのうねり、または高揚、そして末尾「沸騰点を待」つ姿勢はパッションの高まりを示している。
数々の魅惑的なモチーフに満ちた詩集の中心を「風」と「水」のイメージのみに代表させることなど、勿論できることではない。だが、現象学的モダニズムと日本古来の神話的フォークロワの共存を特徴とするこの詩人の〈いま〉を考える上で、風と水のイメージにこだわることは決して無駄ではない。〈アニマ〉と〈アニムス〉の共存＝両性具有こそが詩人の理想という考え方からすれば、『私の瑠璃の水』で初めて〈父〉を「昇天」させ〈母〉の起源にまで遡行する「道行き」を完遂した詩人が、十七年のさらなる深化の後に生み出した『今晩は美しゅうございます』こそが、現代詩人に課された第二の詩人人生のみごとな手本と思われてならないのだ。
最新詩集から六年を経て、日高てるはさらに深化（と進化）を続けている。最新作（未刊詩篇）を本書に収録できなかったのは残念だが、いずれ新詩集として全貌をあらわすことを期待して、ここでは一篇だけを紹介しておきたい。〈風のアニムス〉を具現する最新作である。
屋上の風は人類の少し上を吹く
一人一人狭い階段を登ることに労する 人類は人類は一人一人 細い狭い折れ曲る階段をそれでも用心深く登ることに留意するものだ。一足跳びすればいいものを 一足跳びする者もある。あの娘は 一足跳びして土星へでも行こうとするのか あの娘は銀河を辷るように辷っていったよ。十二世紀頃のベネチュアではマルコの運河を渡っていったように交差点では警笛は吹かぬが――とうそぶく輩や恨めしそうに流し目を人々のうえに贈る輩よ
それはビンディ・内面を見る目
インド古典舞踊の流し目やムドラはシャクティに任せておおき
次から次へと細い狭い階段を登ってくる かつては地下へ地下へとアリアドネの糸に導びかれてシャルダンの言うように降りていったものなのに
今世紀の人類はノアの箱舟でない縄文の形した周りをまわりまわり登ってゆくエッシャーの造形の似姿ではないが それは爬蟲類が逼い登ってくるようにだ
地下には誰もいない。一階には誰もいない。二階には誰もいない 三階にも四階にも……髣髴として嬌声だけがきんきん ときに煌き屯する
髣髴として
屋上の宴は たけなわ――
――空のカーテンを開くと今しも
燃えたぎる鉄の没陽が１｜３の位置に
落ちてゆくところだ――
――シルクロードのさい果てに落ちてゆく没陽 もしカシュガルにて ふたたびの夜明け開くとすればそれはぜに型の紅い唇形の朝顔でなければならない 葉はなぜかハートの形だ むらがるかの地のようみゃくはみどり
カーテンが 飛ぶのは それは
何世紀も後の事だ
カタックのマントラ風の歩法で走り回れ――
屋上の風は人類の少し上を吹く
（「別冊・詩の発見」第二号、二〇〇五年、澪標）
このタイトルに一発で魅了されてしまった私には、とても客観的な解説などできそうにないのだが、可能なパラフレーズを少々試みることで解説者の責を果たしたいと思う。
まず「屋上の風」とは何か。「人類の少し上」とはどのあたりか。そこに吹く「風」は何をもたらすのか。複合的な問いかけをタイトルに持つこの詩は、タイトル自体が詩の構造物といえるだろう。本文はすべてこの〈詩〉のパラフレーズである。最初にあらわれる「階段」は名作「四十五度の凍結」（『私の瑠璃の水』所収）で「凍結」された下り階段（この詩では「地下」へ降りて行く階段）を逆に上りの方向に逆転することで、人類の希望を表象する。もちろんその行程は楽ではない。苦労して一足一足上った先には屋上があり、｢宴｣と｢没陽｣があり、そこに風が吹いている。ただし、その風は「人類の少し上を」吹いているので、人は直接その風に触れることはできない。だが、たしかに風は吹いているのであり、その気配は人類にとって大きな励みであるはずだ。なぜなら、風は「少し」だけ上を吹いているのだから。たとえ、この「少し」の距離を計測し把握できるのが〈水のアニマ〉たる詩人のみであるとしても。