翻訳と音楽　

村上春樹訳『グレート・ギャツビー』をめぐって

（「APIED（アピエ）」13号より）

山田兼士

　フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の新訳登場に際しては、何よりもまず村上春樹の翻訳ぶりに注目が集まった。三十ページにおよぶ「訳者あとがき」を先に読んだ人も多いだろう（私もそのひとり）。訳者から作者への思い入れや作者紹介の部分はおくとして、最も注目されるのは「翻訳の基本方針」として訳者が挙げているいくつかの項目だ。要約するなら「現代性」「会話の流動性」「文章のリズム」となるだろうか。特に「文章のリズム」について書かれた箇所には驚かされた。その部分を引用する。

スコット・フィッツジェラルドの文章には独特の素晴らしいリズムがある。それはすぐれた音楽を思わせる優美なリズムだ。彼は文章をそのリズムに乗せ、童話に出てくる魔法の豆の木の蔓のように、空に向けてどこまでもするするとのばしていく。流麗な言葉が次から次へと生まれて、成長していく。空中のスペースを求めて滑らかに移動していく。美しい光景だ。

　フィッツジェラルドの「文章のリズム」が村上春樹らしい比喩で語られている。聴覚的要素である「リズム」を「美しい光景」と視覚的に表現するのは、明らかに詩的比喩だ。文章（リズム）の美しさを表現する比喩として十分理解できるのだが、この比喩がさらに次のように敷衍されていく時、読者（私）はこれをどう理解すればいいのか悩んでしまう。

そういうところでは時として理屈も整合性も、どこかに追いやられてしまったりもする。多くの言葉は多義的で曖昧なままに、いろんな可能性や暗示を抱えてぼてぼてになったままに、空中にふっと吸い込まれてしまう。

　通常の意味や論理を超えて「可能性や暗示を抱え」たままの「言葉」とは、まさに詩の言葉そのものではないだろうか。ということは、村上が「天才肌の文章家」と呼び、そのため翻訳が「至難の業」であると嘆賞するフィッツジェラルドの「文章のリズム」とは、まさしく詩的リズム、ということになる。もう少し続けて引用してみよう。

そういう場合には僕は、文章の奏でるリズムをなによりも重視した。（中略）だからまずそのリズムをなんとか日本語という土壌に移植し、そのまわりにメロディーやサウンドやリリックをくっつけていくことを心がけた。

　アクセントやイントネーションといった音韻的特徴をもたない日本語では、リズムは主として（というよりほとんど）音数律に拠るしかない。村上はフィッツジェラルドの「文章の奏でるリズム」を最重要視した、という。そしてまた、「音楽という類推」によって理解できるものだ、とも述べている。では、その「音楽」を、その「リズム」を、村上はどのように日本語に「移植」したのか。具体的にいって、どのような一節をどのような日本語に訳せば、「音楽」の「リズム」を、日本語で、生じさせることができるのか。

　村上はその具体例を示していない。賢明なことだ。何を音楽と感じ何をリズムと感じるかは人によって様々だから、ある者にとって快適なリズムが、他の者には耳障りに響くかもしれない。ある人が整然とした規則性を感じる部分に、他の人は単調さ退屈さを感じるかもしれない。だから読者としては、自分が「ああ、ここは音楽的だな」と感じたところを、そのまま「リズム」として捉えておけばいいのだろう。とはいえ（ここで批評魂に火がつく）、訳者が右のように書いたからには、どこをどのような「リズム」で翻訳したのか、必ず具体例を挙げることができるはずだ。それは少なくとも、五七調や七五調といった定型律のことではない。結論を先にいえば、それは、句点と読点の音楽的使用による長短のリズムである。それと、一定の語句や構文の繰り返し。

　ひとつだけ、その具体例を挙げてみよう。第三章の真ん中あたり、「私」が初めてギャツビーと言葉を交わす場面。その場を「とりなすように understandingly」（これがすでに名訳）微笑んだギャツビーの一瞬の「微笑み」を、語り手は次のように描写する。

その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。その微笑みは、あなたが「ここまでは理解してもらいたい」と求めるとおりに、あなたを理解してくれる。自らがこうあってほしいとあなたが望むとおりのかたちで、あなたを認めてくれる。あなたが相手に与えたいと思う最良の印象を、あなたは実際に与えることができたのだと、しっかり請け合ってくれる。そしてまさにそのポイントにおいて、微笑みは消える――（後略）

　三行目の「その微笑みは」から「請け合ってくれる」まで三つの文は、緊密な構造と的確な句読法によって、明確な日本語のリズムを奏でている。その部分の原文を引用する。

It understood you just so far as you wanted to be understood, believed in you as you would like to believe in yourself and assured you that it had precisely the impression of you that, at your best, you hoped to convey.　

　村上訳は、原文にない引用符を用いることでその場の緊迫感を醸し出すとともに、「あなた」を六回繰り返すことによって一種の頭韻の効果を与えている。「あなたが相手に与えたい」と三度繰り返される「あ」音も頭韻といえばいえる。それに「くれる」を三度たたみかける文末表現もまた、一種の脚韻を奏でているだろう。ところで、この文章の原文を見ると、実はひと続きの文で成っていることがわかる。途中で三箇所にコンマがあるだけで、全体が一文で構成されているのである。ここに、英語から日本語への「リズム」の「移植」が、単純な置き換えによるものでないことは明らかだ。原文では長短のリズムやアクセントを駆使し、それに「you」の繰り返しを活用することで、逼迫した雰囲気を醸しているひと続きの文を、訳者は三つの文に分けることで、日本語の「リズム」に置き換えた。フィッツジェラルドの「音楽」を日本語の「音楽」に変換したのだ。

　今挙げたのはほんの一例にすぎないが、村上春樹が「リズム」といい「音楽」と呼ぶフィッツジェラルドの文体を、どのようなかたちの日本語で表現したのかを探る、その端緒くらいにはなると思う。透明とも普遍的とも呼ばれ、「倍音」を奏でていると評されることもある、村上春樹の「文体」の秘密も、実はこのあたりにあるのではないか。