ボードレール『パリの憂愁』名フレーズ２２

（「びーぐる」３６号）

山田兼士

「音楽は天を穿つ」「天才とは意のままに取り戻された幼年期」など、数多の箴言や警句をものしたボードレールは、詩においても多くの名句を残している。『悪の華』ほどではないにせよ、『パリの憂愁』にも名句は数多く散見される。ここでは、全五〇篇から成る散文詩集から二二の「名フレーズ」を（近く刊行予定の拙訳によって）紹介する。

１　私は雲が好きだ……ほら、あそこを……あそこを……過ぎてゆく雲……すばらしい雲が！（「異邦人」）

雲は船と共にボードレールが最も深く愛するイメージだ。自由に空を行き変幻自在に形を変える雲こそ、詩人の〈魂〉の喩である。

２　美の追究とは決闘であって、そこで芸術家は恐怖の叫びをあげ、敗北を喫するのである。（「芸術家の告白の祈り」）

自然との決闘において必敗の宿命を負う芸術家の運命を射抜いたペシミスティクな一行。

３　私はといえば、このとんでもない馬鹿に突然はかり知れぬ怒りをおぼえたが、とはいえこの男こそ、フランス中のあらゆる精神を一身に集めた者のようにも思われたのだった。（「剽軽者」）

街角で偶然に出くわした馬鹿者にフランス精神の真の姿を垣間見て、さらに自己像をも見ずにいられない、やりきれないほどの真実暴露である。

４　今や〈時間〉が王者として君臨する。そして、この醜い老人と共に戻ってきたのは、その魔性の取り巻きたちの一列、〈記憶〉、〈後悔〉、〈痙攣〉、〈恐怖〉、〈苦悶〉、〈悪夢〉、〈怒り〉、そして〈神経症〉。（「二重の部屋」）

〈時間〉に付随する負の感情のパラダイム。こういう列挙は詩人の得意とするところである。

５　だがじきに、免れるべくもない〈無関心〉が私にのしかかり、私は、あの男たちが圧倒的な〈幻想獣(キマイラ)〉に圧し潰されていたのより更に重く、〈無関心〉に圧し潰されてしまったのだ。（「それぞれがキマイラを」）

人々が幻想に囚われている姿を寓意化すると同時に、みずからの「無関心」の重さ辛さを端的に要約する一行。

６　しかし、冷酷非情なるヴィーナスは、大理石の目で遠くを見つめ、何を見てるのやらわからない。（「道化とヴィーナス」）

道化の命がけの懇願に一切の慈悲を拒絶するヴィーナスの非情さは詩人にとって「美の不可能性」そのものの喩だろう。天上における幸福という（ロマン的）神話さえ全否定されている。

７　だが、ほんの一瞬にせよ悦楽の無限を見出した者のことだ、地獄堕ちの永遠などかまうものか？（「不都合なガラス売り」）

一瞬の快楽に美を求める刹那的な詩人の一面を凝縮した一行。「かまうものか？」は決め台詞。

８　（……）主なる我が神よ！　私が人間の中の最低の者ではなく、私の軽蔑する人々に劣る者ではないことを私自身に証するような、数行の美しい詩句を生み出せるよう、どうかお恵みください！（「午前一時に」）

自己の優越性を証明することを神に祈る、というのはどう見ても背教的（悪魔的）祈祷にほかならない。矛盾をものともしない真情告白ともいえる。

９　自らの孤独に人々を住まわせることのできない者は、せかせかした群衆の中で独りでいることもできないものだ。（「群衆」）

「孤独」と「群衆」の相互性、同時性、両義性を要約する一行。「群衆の中の孤独」という現代人の認識はここに始まる。

１０　夢だ！　いつでも夢なのだ！　そして魂が野心的かつ繊細になればなるほど、夢は魂を可能性から遠ざけてしまう。（「旅への誘い」）

韻文詩「旅への誘い」の姉妹作だが、韻文が「誘い」そのものを歌い上げるのに対して、散文ではその「誘い」が、すでに実現不可能な夢であることを知悉した上での、冷ややかな呟きへと変じていることが分かる。

１１　それに、計画を実行することが何になるのだろう、計画とはそれ自体で十分な享楽であるというのに？（「計画」）

「１０」と同様、実現不可能な夢＝計画への冷ややかな認識を伴った呟きのエクリチュールだ。この「享楽」はどう見ても自虐的逆説ではないだろうか。

１２　最も取り返しのつかぬ悪徳とは、愚かさから悪を為すことなのだ。（「贋金」）

悪意以上に悪しきものとして「愚かさ」を位置づけるのは詩人の深い人間洞察によるもの。愚かな善意・善行ほど人を深く傷つけるものはない。

１３　神よ！　主たる神よ！　どうか悪魔が約束を守るようにして下さい！（「気前の良い賭博師」）

「８」と同様に、神への矛盾した祈祷。悪魔のことまで神に祈るか、とつっこみたくなる。もちろん詩人は確信犯だ。

　

１４　（……）錯覚が消え失せる時、つまり我々が、生き物なり出来事なりを、それが我々の外部に存在する通りに見る時、我々は、消え失せた幻影への哀惜の念が半分、新しいものを前にして、現実の出来事を前にしての心地よい驚愕が半分、錯綜した奇異な感情を覚える。（「綱」）

「母性」への絶対的信用という「幻影」が消えた後の感情をボードレール（あるいは語り手である画家マネ）は「奇異な感情」と名付ける。哀惜と驚愕の融合から成る「覚醒」の詩学の根幹にある感情のことだ。

１５　（……）永遠の〈悦楽〉と〈苦悶〉の歌い手よ、哲学者、詩人、そして芸術家であるあなた、不滅の名においてあなたに敬礼をおくる！（「バッカスの杖」）

「フランツ・リストに」との献辞のある本作で、詩人は偉大なる巨匠を褒め称えることで棚に上げ（褒め殺しによって過去に封印し）、新しい価値、新しい芸術を求めようとする。そもそも「バッカスの杖」とは、詩人の元祖オルフェウスを撲殺した恐るべき武器にほかならない。すべては大芸術から小芸術への転換のために。

１６　今は酔うべき時刻だ！　〈時間〉に虐げられる奴隷にならないために、酔え、休みなく酔え！　酒に、詩に、美徳に、何でもあなたの思うままに。（「酔え」）

覚醒を促す「バッカスの杖」と「既に！」の間に配置された本作は、陶酔と覚醒の両義性を暗示している。酔う対象は酒、詩、美徳など何でも良い。すべては「時間」の圧政から逃れるためだ。「４」と重ね合わせると「時間」の脅威が詩人にとってどれほどのものであったかが窺われる。

１７　開いた窓を通して外から見る人には、閉じた窓を見る人ほどに多くのものが見えることは、決してない。（「窓」）

現実に見えるものより隠されたもの方がより真実を見せるものであることを、詩人はこの逆説で説明する。もちろん想像力あってのことだ。「窓の逆説」である。当時の窓ガラスが現在と比べて透明度が低かったことも考慮すべきだろう。

１８　良識の名において、私は正しかった。が、法律の観点からすれば、彼も誤ってはいなかった。（「鏡」）

フランス革命の大原則を振りかざす醜い男に対する嫌味、憎悪のように読まれるが、続く「港」の「快」を強調するためにことさら「不快」を強調しているとも読まれる。

１９　港は、人生の闘いに疲れた魂にとって、魅力的な滞在地である。（「港」）

沖を行く船を見ることの歓びを歌った作品の最終行。船は「１」の雲と並んで詩人の偏愛するイメージだった。動く建築物、という共通性のためである。

２０　（……）神が水蒸気でつくった動く建築、手に触れることのできない素晴らしい構造物（……）（「スープと雲」）

詩人にとって雲もまた「動く建築」である。ただし、船の作者は人間だが、雲の作者は神だ。

２１　生には無垢な怪物たちが蟻のようにうごめいている。（「マドモワゼル・ビストゥリ」）

奇妙な嗜好をもつ不思議な女を詩人は「無垢な怪物」と呼ぶ。その怪物が蝟集する空間こそが現代都市なのだ。現代人の病理に鋭く迫る寓意詩の結末部分。

２２　そして詩人は、画家のチョッキを羽織る度にいつも、善良な犬たちのことを、哲学者のような犬たちのことを、小春日和のことを、それに熟しきった女たちの美しさのことを、思わずにはいられない。（「善良な犬たち」）

『パリの憂愁』全体を締めくくる、自己（善良な犬）―世界（小春日和）―他者（熟しきった女たち）の三位一体は、〈詩〉が〈世界〉との関係、〈他者〉 との関係の総体の中に、それぞれの関係の在り方の中にこそ実在する、という理念を示唆している。ここに〈詩〉は万人の〈生〉の中に遍在する、という理念が示され、詩人は世界中に遍在する〈詩〉を求めて放浪する〈犬〉のイメージを引き受けることになる。新しい詩世界の宣言だ。