バルバラ 76／88

（「別冊・詩の発見」第13号）

山田兼士

一九七六年晩秋　阪急石橋駅近く　スナック「樫の木」の

店内に流れる歌はSans Bagages母の死から一週間後の事

　　Il y a tant et tant de temps que je t´attends.

　　あたしたんとたんとあんた待ったわ。

いくら待っても　母はもう　来ない　二人で暮らし始めた

２ＤＫから　バルバラのカセットを　持ち込んだのだった

　　Ma plus belle histoire d’amour, c’est vous.

　　我が麗しき愛の物語、それはあなた。

石橋　高槻　夙川　高槻　阪急沿線　引っ越しを繰り返し

青春は高速度で駆け抜けて行く　息つぐ　暇もないうちに

一九八八年冬大阪フェスティバルホール　父と母になった

ぼくたちは　舞台に立つ黒衣のバルバラを　凝視していた

あいにく風邪をひいて声が出ないが　一生懸命歌うと宣言

ウィスパーと　ジェスチャーは　さすがのキャリアと感嘆

　　Il y a tant et tant de temps que tu m´attends.

　　あんたたんとたんとあたし待ったの。

いくら待っても　父も　もう来ない　大人になった孤児だ

バルバラが熱唱している　ウィスパーで　ジェスチャーで

　　Il pleut sur Nantes……Mon père, mon père……

　　ナントに雨が降る……父よ、私の父よ……

あの日　美濃にも雨が降った　野にも山にも真冬の氷雨が

降り注いだ　いつか母も父も物語＝歴史(イストワール)になってしまった

　　Ma plus belle histoire d’amour, c’est vous.

　　我が麗しき愛の歴史、それはあなた。

ぼくは今　母の享年を疾うに越え　父の享年を　越えよう

としている　物語になるのはかなり先のことだと思いつつ

バルバラを聴きながら　傍らで　歌う　妻と　近くに住む

息子と遠くの娘を思い　当分はまだここにいるよ　と呟く