●書評●安藤元雄『『悪の華』を読む』

（「びーぐる」４１号）

亀鑑としての集大成　

山田兼士

　長い間詩人としてフランス文学者として活躍を続けてきた安藤元雄が、ここに来て一冊のボードレール論を上梓した。全八章のうち最も古い第四章「旅への《さそい》」は一九七三年の発表、その後折にふれて発表された第一、五、七、八章に書き下ろしの第二、三、六、九章を加えてまとめたモノグラフィーである。そのうち、四章分を書き下ろすきっかけになったのが本誌第三六号のボードレール特集への寄稿だったことが、「あとがき」に記されている（編集人として嬉しいかぎり）。

　したがって本書には四十五年にわたる著者のボードレール読解が凝縮しているわけだが、既発表の論考は、私自身、いずれも発表当時に精読して大いに学ばせてもらった記憶がある。例えば、集英社文庫版『悪の華』の「解説」として書かれた本書第一章は、詩そのものの精巧かつ柔軟な現代日本語訳と相まって、ボードレールの魅力と問題系を的確に示すものだった。他の章についても同様である。

　本書は、何よりも、長年にわたる緻密な読解の成果であることはいうまでもないが、膨大な資料や先行研究を要約し取りまとめていく息の長い作業の中から抽出されたエッセンスが、独自の論脈を創出しつつ、美しい文章と構成の中に端正にまとめられている点に、羨望と敬意を感じざるを得ない。この端正な佇まいによって、この一冊は、十九世紀フランス詩人の本領と重要性を現代日本の読者に伝えるのに十分な魅力をもつことになった。中でも、詩集の全体像を示すために書き下ろされた各章（と、本誌初出の第八章）からは、学問的批評的卓抜さと同時に、新鮮な詩美といったものが漂っている。ざっと挙げるなら、｢spleen｣と「愛」の葛藤共存の表現をテーマとする「Spleen et Idéal」詩篇の分析と統合の鮮やかさ、「子供」のテーマを詩的生涯の全体にわたって探求する手際、｢旅へのさそい｣と「秋の歌」の作品分析を通して詩集全体の問題系を浮かび上がらせる論脈、「パリの情景」詩篇の現代性が『悪の華』のみならず散文詩集にまで通底していることを示す手順、等々。いずれをとっても理想的な「詩人／詩集」論の亀鑑としての集大成と呼ぶべきだろう。

　具体的な例を一つだけ挙げておく。「子供としてのボードレール」と題された第八章後半、『悪の華』第二版に初めて収録された詩｢通りすがりの女(ひと)に｣を（実に美しい訳文で）全文引用した後に、著者は次のように論じていく。

　ここに現れた女性もまた、もしかすると、ボードレールにとって母の化身となり得たのだろうか。彼はここではもはや子供ではないが、しかしこの女性の前での《私》の態度は《気の変な男のよう》である。つまりここでも詩人の側が劣位にあるのだ。二人はそのまま赤の他人としてすれ違ってしまい、美しいあこがれの対象への合一の願いは永久に叶えられない。だがこの女性が彼の前を通って行ったのは、偶然のようであって偶然ではない。（中略）もしかしたら、かつては母もこのようにして再婚相手と出逢ったのかも知れない。

　ボードレール作品に頻出する女たちの多くが様々な年代の〈母〉を示唆していることは私もかつて論じたことがあるが、この最後の一文には虚をつかれた。詩人の側だけでなく詩人の母の側にまで憑依して論じきる、学匠詩人の真骨頂を見る思いがしたからだ。

（水声社、二八〇〇円＋税）