五十七歳詩集
――天野忠／谷川俊太郎／高階杞一
（「ムーンドロップ」１４号より）
山田兼士
天野忠詩集『動物園の珍しい動物』（一九六六年）は、冒頭に「クラスト氏のこと」と題した散文が掲げられ、戦前のある日ふと出会ったクラストと名乗る英国人水夫との交渉と、その場で託されたという詩稿を翻訳出版するに至った経緯が描かれている。はじめ『クラスト氏のいんきな唄』と題されていたように、一種の「偽翻訳」詩集である。ピエール・ルイス『ビリティスの歌』（古代ギリシャの閨秀詩人を僭称）や谷川俊太郎『タラマイカ偽書残闕』（古代語の存在を捏造）、最近では岩佐なを『幻帖』（成立年不詳の写本を想定）などが思い浮かぶ。いずれも、作者が翻訳者を自称することで異国や異界のリアリティを演出する効果を狙ったものだ。では、天野忠がこの詩集で演出した異界のリアリティとは？ 大野新は、天野忠によるこの「韜晦」を「なまの｢晩年｣表白にたいする天野さんの羞恥」と指摘した。晩年？ 五十七歳で？ 天野忠は八十四歳で亡くなったのだが。
英国人水夫クラスト氏が日本で見聞したという設定で書かれた詩は、たとえば次のようなものだ。
東洋には姥捨山があって
不要な老人は捨てられる
古いペンを捨てるように。
まことに合理的なことだ これは
諸君
古いさびたペンは捨てよう
ただし山へ捨ててはならぬ
山では
泣きながら
不要な老人が歩いている。 （「危険」全文）
日本の古い因習である姥捨てを「合理的」と見る英国人の語りを騙ることで、その悲劇をさりげなく（静かに慎ましく）糾弾する、というのがひとまず本作の要綱だろう。もちろん、｢姥捨山｣とは具体的な山のこと（のみ）ではない。産業優先効率優先の現代社会で邪魔者扱いされる老人への憐憫とも取れるし、二度繰り返される｢不要な老人｣に自らの老いを重ねている、とも取れる。四十歳代ですでに自らの老いを詩の主題としていた天野忠が、外側から老いを描くことで、やがて訪れる（本当の）老いに先手を打っている、とも取れるだろう。「泣きながら」の一語にその企みが垣間見えるようだ。羞恥といえば羞恥だが、同時に、周到ともいえるし老獪ともいえる。ともあれ、この後いよいよ磨きがかかる〈老いの詩学〉を考える上で、この韜晦ぶりは見逃せない特徴だろう。とにかく五十七歳の詩人が英国人青年の口を借りて日本の老人問題をうたっているのである。タイトル「危険」に秘められた起爆力にも注意が必要だ。詩人は転換期に立ち会っているのだ。
天野忠より二十二歳年少の谷川俊太郎にも、五十七歳時（一九八八年）に刊行した詩集がある。佐野洋子の絵を添えた〈こども〉の詩集『はだか』と、長編の表題作をもち英訳を付して刊行された『メランコリーの川下り』である。前者における〈こども〉への憑依能力についてはこれまで繰返し語ってきたが（拙著『谷川俊太郎の詩学』参照）、後者における危機意識の（無防備なまでの）表白にも同時に目を向けなければならない。
……書くために
書かないでいることを学び……
書く……ために
もう一度初めから……
書きかたを覚える
その学校には誰も……いない
ざらついた木の床に……
陽が射していて
遠くからかすかに……おまえの声が
聞こえているだけで……
（「メランコリーの川下り」末尾部分）
これ以前の作品でもしばしば言及され、この後『世間知ラズ』（一九九三年）で頂点に達し、その結果「沈黙の十年」と呼ばれる一種の空白状態をもたらすことになった、｢書くこと｣への疑問、あるいは否定意識が、鬱的な状態のままなまの表白となって吐露されているのだ（この無防備さは天野の周到さと対を成す）。巧緻巧妙変幻自在を特徴とするこの詩人にはめずらしい（とはいうものの意識下世界の探究もまたこの詩人の特徴なのだが）、ネガティヴな自己像を描いている点が注目される。歴史意識に疎く過去のない人間などと自称する詩人が、五十七歳という微妙な年齢に達して、過去を振り返り現在を顧みて憂鬱な瞑想に耽っている姿が垣間見えるのではないだろうか。詩人は転換期に立ち会っているのだ。
『メランコリーの川下り』から二十年後（二〇〇八年）、やはり五十七歳になった高階杞一は十二冊目の詩集『雲の映る道』を刊行した。軽快なユーモアと切実なペーソスを特長とする点で天野忠と比べられなくもない、また、良質の大衆性において谷川俊太郎と比肩できなくもないこの詩人が、本詩集表題作に描いたのは、少年時代の「田んぼの真ん中にあった」通学路だった。小川でザリガニをとったり水田に映る雲をながめたり牛やカエルを見たりしながら通った道を描いた後に、詩人は現在の自分自身を次のように描いている。
そんな道を
今でもときどき歩く
道も田んぼも
とうの昔になくなってしまったけれど
自分が今どこにいるのか
わからなくなった時
目をつぶって
雲の映る田んぼの道を
ゆっくり ゆっくり
帰っていく （「雲の映る道」末尾部分）
「自分が今どこにいるのか／わからなくなった時」というのは、実際にそういう時があることを前提にしている。この半世紀ほどの間に日常生活のすぐそばにあった「田んぼ」は姿を消してしまった――それに伴って詩人の魂の風景もまた大きく変化してしまった――が、「目をつぶ」ることで甦る少年期の原風景を、詩人は今でも意のままに取り戻すことができる。言い換えれば、そうしなければ自分の居場所がみつからないような、危うい現実感覚の中で生きている。そう、詩人は転換期に立ち会っているのだ。
半世紀ほど前には老年期への入口だった五十七歳という年齢が四半世紀ほど前には自己再確認の鬱的年齢となり、さらにその四半世紀ほど後には少年期への回帰を促す年齢となった――などと都合の良い時代認識は、これら三人の特殊能力の個別性と比べたらほとんど意味を持たないかもしれない。それぞれの違いは時代の相違などでなく個性の相違にほかならないのだ、と。しかし、そうした個別性の中にこそ各々の時代状況がいくばくか反映しているのではないか、との思いも（少なくとも私には）いくらかある。端的に言うなら、天野忠にとって老年期のはじまりだった五十七歳という年齢が、谷川俊太郎にとっては詩人としての出発点＝原点を問い返す時期、その意味で青年期への回帰となった。さらに、高階杞一にとっては失われた少年期を回復すべき時期になった、ということだ。
このような粗雑なまとめ方がロジカルな説得力をもつとは自分でも思えないが、三詩人の五十七歳詩集をこのように重ね読みした時に見えてくる相違点と共通点は、意外と現代詩人の宿命といった主題と深く関わるように思われてならない。萩原朔太郎が死んだ五十五歳をいちおうの上限として、概ね短命だった近代詩人たちに比べて、現代詩人たちは大幅にその寿命を延ばしている。その晩年の身の処し方にこそ現在における〈詩の宿命〉が問われているのではないか、と、現在まさに五十七歳と三ヶ月を迎えた私は（自戒をこめて）痛感する次第である。高階さんのように｢雲の映る道」が網膜に映ればいいのだけれど。